1995年~1997年-栄光と不運の日々-
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「マルコ・パンターニ」の記事における「1995年~1997年-栄光と不運の日々-」の解説
1995年のジロ・デ・イタリア直前の5月1日、トレーニング中に信号無視の車にはねられ無念の欠場。だがツール・ド・フランスではラルプ・デュエズへの頂上ゴールが設定された第10ステージで優勝するなど、2勝。総合では13位に入り、2年連続でマイヨ・ブランを獲得したほか、10月に開かれた世界選手権でも3位に入る活躍を見せた。 だがその直後に開催されたミラノ〜トリノにおいて、下りで加速しているときにコースを逆走してきた車(警察が全選手が通過したと勘違いして交通規制を解除したことが原因)と正面衝突。左足の下腿骨が折れて、皮膚から飛び出す大けがを負い、選手生命の危機に直面する。そのため1996年のシーズンは、リハビリと回復のためのトレーニングに丸々費やすこととなってしまった。 1997年はカレラに代わり、新しいスポンサーとなったメルカトーネウノのエースとして、春のフレーシュ・ワロンヌで5位、リエージュ〜バストーニュ〜リエージュで8位という好成績を収め、復活を期してジロ・デ・イタリアに臨んだが、第8ステージで、前に飛び出してきた猫をかわそうとした選手たちの落車に巻き込まれてリタイアしてしまう不運に見舞われる。 しかしツール・ド・フランスでは、ラルプ・デュエズへの山頂ゴールが設定された第13ステージでは37分35秒という最短登坂記録で優勝(2008年時点でこの記録は未だに破られていない)。さらに第15ステージでも優勝し、総合3位。完全復活を遂げた。
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