1978年 不発弾処理場の返還
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「嘉手納弾薬庫地区」の記事における「1978年 不発弾処理場の返還」の解説
座喜味城の東側に位置していた嘉手納弾薬庫の不発弾処理場は住居区域に近く、また処理運営も雑で大きな爆破音と無数の鉄の破片が飛散し住民の恐怖の的となっていた。また1973年には嘉手納弾薬庫内の知花弾薬庫で毒ガス事故 (レッドハット) が発生し、脅威がさらに高まった。人々は弾薬の爆破処理に抵抗し、抗議の声をあげたが、そんな時期に、日米合同委員会が不発弾処理場を日米共同使用とすることを合意していたことが明らかになり、住民の脅威と怒りは増大した。読谷村は、那覇防衛施設局や陸上自衛隊第一混成団特別不発弾処理班、沖縄総合事務局へ現場調査を求め、いったんは不発弾処理作業の中止が約束されたが、1975年に米軍は一方的に使用再開を通告した。住民は不発弾処理場入口で座り込みをつづけ、粘り強い抗議でもって不発弾処理場と集積所を閉鎖させた。 1978年、不発弾処理場は返還された。 地元主導の山間地を生かした跡地開発を模索する中、読谷村は喜納焼の発祥地であり、都市化する那覇市の壺屋で登り窯が不可能になってきたということで、ヤチムンの里の構想が始まった。既に南側では1974年に人間国宝の金城次郎が窯を移しており、読谷のヤチムンの里は大きく進展した。
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