1936年・メルセデスチームのオーディション
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「リチャード・シーマン」の記事における「1936年・メルセデスチームのオーディション」の解説
「 もしメルセデスのために走ることになったら、二度と他のチームのためには走らないだろう(If I ever get to drive for Mercedes, I shall never drive for anybody else.) 」 —リチャード・シーマン(1936年夏) シーマンはステップアップを夢見るが、当時の自動車レースの最高峰であるヨーロッパ・ドライバーズ選手権をはじめとするトップクラスのレースではドイツのメルセデス・ベンツとアウトウニオンが圧倒的に強く、イタリア、フランスのチームでも歯が立たず、さらに弱体のイギリス車ではこれ以上のステップアップは望みようがなかった。 1936年11月、メルセデスチームを率いてグランプリレースを戦っていたアルフレート・ノイバウアーは、ドライバーの補強を行うための大規模なオーディションをドイツ・ニュルブルクリンクで開催した。シーマンも招待され、友人のクリスティアン・カウツとともにこのオーディションに参加し、ニュルブルクリンク(北コース)で好タイムを出したことでノイバウアーに見出され、正式な加入オファーが提示された。 当時、イギリスとナチス・ドイツとの間では緊張が高まっていたことから、シーマンの母は同チームへの加入に反対したが、シーマンはそれを押し切り、1937年2月にメルセデスチームと契約を結んだ。3月にはモンツァでもテストが行われ、シーマンは正式にリザーブドライバーとなる。この際、イギリス人のシーマンを加入させることについて、メルセデスチームはアドルフ・ヒトラーの承認を必要とした。
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