17~20世紀
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 22:10 UTC 版)
17世紀、スウェーデンは地峡とイングリアを領有するようになる。このとき正教徒カレリア人の多くはトヴェリに移動して行った。この時代は、スウェーデン=フィンランドの一部として、フィンランドが拡大した時代でもあった(バルト帝国)。 1700年から1721年まで、ロシアとスウェーデンの間に大北方戦争が起こるとロシアはイングリアを奪取し、その領土とした。ロシアは地峡の南端部、スウェーデンのニェンスカンの町があったあたりにサンクトペテルブルクの町をつくり、首都にした(1712年)。1812年、地峡の北西半分は1809年にはロシアの属国であるフィンランド大公国の一部となった。 その地形と気候によって釣りなどに良い環境であり、サンクトペテルブルクとの近さともあいまって、カレリア地峡はフィンランドで最も豊かな地であった。産業革命が起こると、1870年にサンクトペテルブルク-ヴィボルグ-リーヒマキまでの鉄道が引かれ、1893年にはヴィボルグ-ハイトラ-ソルタヴァラに、さらに1917年にはサンクトペテルブルク-ケックスホルム-ハイトラ間に鉄道線が引かれ、経済発展に大きく役立った。19世紀に入るとサンクトペテルブルク-ヴィボルグ間の鉄道は観光の為にサンクトペテルブルクの住人たちが使うようになった。 フィンランドが1917年に独立を宣言すると、サンクトペテルブルク以北の地峡の多くはフィンランド領になった。特にヴィープリはフィンランド第二の都市であった。イングリアに住んでいたフィンランド人たちは依然としてこの地域に執着を持っており、このためイングリアのフィンランド人は共産主義になったロシアから分離しようとした。しかし、1920年の終わりに結ばれたタルトゥ条約でこの地域は再びロシアへの帰属が決まった。1928年から1939年の間、地峡の一部はロシアに属し、クイヴァイシ直轄区に組み入れられ、ソ連の自治区政策によってフィンランド語も公式言語となっていた。しかし1936年にフィンランド国境沿いのヴァルケアサーリ、レンパーラ、ヴオレ、ミックライネンではフィンランド人はフィンランドへと強制送還された。
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