100円均一事業の展開
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/11 04:59 UTC 版)
「渡辺喜久男」の記事における「100円均一事業の展開」の解説
その後、母親から50万円の借金をして、家庭用品の100円均一の事業を開始する。当時、続々と開業していたスーパーマーケットの家庭用品売り場をターゲットに事業を展開。当時、少ない資金で起業し、短期間で利益を出すことができる事業として100円均一に目を付けたという。 1975年(昭和50年)には「日用品市場株式会社」を設立。スーパーの家庭用品売り場での店頭販売に加え、デパートでの催事販売、同業への仲卸なども開始し、台湾などを中心に海外への商品発注も行うなどして事業を拡大していき、その後、年商は10億円規模に拡大していく。徐々に取り扱う商品の種類も増え、日用品に加えて骨董、美術工芸品などを台湾、香港、フィリピン、タイ、マレーシア、韓国などから輸入し、店舗で販売するようになる。だが、順調な事業の拡大の一方で、当時この商売は現金仕入れではなく、月末締めの翌月末払いで、資金繰りは常に苦しい状態だった。 商品を抱えてあちこちのスーパーの店頭やデパートを巡る根無し草とも言える事業形態に不安と疲れを感じ、安定した携帯の事業への転換を模索。神奈川県大和市の国道沿いに300坪の倉庫を借り、改装して200坪を店舗(店名は『珍美麗』)、100坪を倉庫にして、そこを拠点に店舗販売、および従来のような催事販売、仲卸を展開するも、高額の家具や美術品、工芸品の取扱いが増えたことで、在庫を抱えて資金繰りはさらに悪化していく。のちに創業した「おたからや」における「ひとりで運搬できないような大きなものは扱わない」、「銀行からお金は借りない」、「人に金は貸さない」、「会社の規模を大きくしない」、「換金性の悪いものは扱わない」といった経営方針は、当時の反省から生まれたものである。 やがて2億円分近くの在庫を抱えることになり、銀行に対しては借入金と相殺し、取引先には仕入れ原価から大幅に値を下げて買い取ってもらうことで商品を現金化し、店をたたむに至った。
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