1形のその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/20 23:44 UTC 版)
その後、1913年に内務省に対して連結運転の実施を申請したことから、1915年に3・29・41 - 46・48・49の10両を阪神初の総括制御車に改造、台車をブリル27MCB1、モーターをGE-200C(29.8kW)4個に換装した。ただ、間接制御車と直接制御車と車号が混じっていたことから、1922年1月に3と47、29と50の番号振り替えを行い、総括制御車は41 - 50に揃えられた。このグループは1920年以降に301形各形式が登場した後は車内では旧マルチプル車と呼ばれるようになり、1923年には車体を331形と同様のものに更新されて、291形に形式変更された。 残った直接制御車は301形各形式が増備されるに及んで、1921年以降順次廃車された。1921年に31 - 37の7両が京都電燈(後の京福電気鉄道)へ譲渡され、同社の嵐山線などで使用された。1922年には1・2が廃車されて機器が112・113号無蓋電動貨車へ流用され、また1923年5月には3が廃車されて同じく機器が69号散水車に転用された。残った30両は関東大震災で被災を受けた東京市電に譲渡され、2500形2501 - 2530となったが、それまでの酷使によって車体が老朽化していたことと当時の東京市電では大型すぎたことから譲渡後わずか1年で廃車となり、当時の東京市電気局長長尾半平の責任問題にまで発展したことから、「ハンペイ電車」とのあだ名を授けられた。
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