鹿内信隆の退任後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/12 06:44 UTC 版)
「ニッポン放送の経営権問題」の記事における「鹿内信隆の退任後」の解説
信隆は1985年にセミリタイヤし、その息子鹿内春雄がグループを引き継いだ。この一件は、当時「世襲」と呼ばれ注目を集めたが、1988年に春雄が43歳で早逝。信隆は議長に復帰すると同時に、春雄と同年代で日本興業銀行行員であった娘婿の佐藤宏明を、養子縁組の上鹿内姓に改姓させて(夫人の佐藤厚子は鹿内姓に復帰)議長代行に置いた。 1990年の信隆死去後、宏明は議長に昇格。カリスマ的存在であった2人が相次いで亡くなり鹿内家の求心力が弱まっていたが、グループの結束力強化を図る目的で1991年2月にグループの最高意思決定機関である「株式会社フジサンケイコーポレーション」を設立。宏明が会長兼社長に就くとともにグループの主幹四社(ニッポン放送、フジテレビジョン、産経新聞社、サンケイビル)の会長職も兼務。また主幹四社の社長を同社の役員に置き、フジサンケイグループの権力を掌握した。しかし宏明の経営手法が各社の代表者とは相容れず、とりわけフジテレビジョン社長日枝久(1988年に義兄・春雄の死後社長就任)とは確執を生んだ。
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