鶴見清彦とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 鶴見清彦の意味・解説 

鶴見清彦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/04/28 09:12 UTC 版)

鶴見 清彦(つるみ きよひこ 1917年3月11日 - 1976年11月17日)は、日本の官僚外交官

経歴

1940年東京帝国大学法学部政治学科を卒業後、外務省へ入省。 外務省在外研究員としてアメリカ合衆国に渡るも、1941年日米関係が悪化。同年11月に引き揚げ船として派遣された氷川丸に乗船して帰国した[1]1942年からタイ国に勤務し終戦を迎える。戦後は終戦連絡中央事務局に勤務し、1951年に在ワシントン在外事務所勤務。1953年に外務省アジア局五課長、1955年にジャカルタ領事となる。1951年、バンドン会議に出席[2]

その後は駐米公使、外務省経済局次長、外務省経済局長、経済協力開発機構日本代表部大使、外務審議官などを務めた。外務審議官時代には田中角栄首相とリチャード・ニクソンアメリカ大統領の日米首脳会談の事前調整を担い、アメリカの対日貿易赤字解消のために大型ジェット旅客機購入を取り決めた(これは結果的にロッキード事件に発展する遠因となった)。1974年にジュネーブ国際機関代表部大使となったが、1976年8月に肺がん治療のため帰国。しかし回復を果たせず同年11月17日に国立がんセンターで死去。59歳[3]従三位勲二等旭日重光章[4][5]

脚注

  1. ^ 第三船氷川丸が横浜入港『朝日新聞』(昭和16年11月19日夕刊)『昭和ニュース辞典第7巻 昭和14年-昭和16年』p456
  2. ^ 鶴見清彦”. 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」 (2004年). 2021年2月21日閲覧。
  3. ^ 訃報欄『朝日新聞』1976年(昭和51年)11月17日夕刊、3版、11面
  4. ^ 官報昭和51年本紙第14966号 10頁
  5. ^ 官報昭和51年本紙第14965号 11頁

関連項目

  • 日米貿易摩擦
先代
加藤匡夫
外務省経済局次長
1966年 - 1967年
次代
須磨未千秋
先代
加藤匡夫
外務省経済局長
1967年 - 1970年
次代
平原毅



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  鶴見清彦のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「鶴見清彦」の関連用語

鶴見清彦のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



鶴見清彦のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの鶴見清彦 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS