魏の恵王期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/27 17:11 UTC 版)
紀元前343年頃、魏の恵王は、馬陵の戦いの大敗を受けて、斉への報復戦争を企てていた。すると恵施は、報復戦争ではなく外交的策略によって斉を攻めるべきだと進言した。恵王がこの進言を採用したところ、成功した(『戦国策』魏策二)。それ以来、恵王は恵施を魏の宰相とした。 恵王は恵施を深く寵愛していた。恵王は、あたかも斉の桓公が管仲にそうしたように、恵施を「仲父」と呼び、あたかも堯が許由にそうしたように、恵施に王位を譲ろうとさえした(『呂氏春秋』審応覧不屈篇)。一方で、恵施の政策や立法は理想主義的で非実用的な内容として、他の魏臣からしばしば批判された(『呂氏春秋』審応覧不屈篇、応言篇)。 恵施は民の救済・社稷の安定を、自身に課せられた使命・役割と考えていた(『説苑』雑言篇)。恵施はこのことを表明する際、『詩』の一節「凱弟君子、民之父母」(『詩経』大雅・泂酌)を引用して、自身を「民之父母」になぞらえている(『呂氏春秋』審応覧不屈篇)。 恵施が平和主義的な外交政策をとったのも、そのような民の救済のためだった(『呂氏春秋』開春論愛類篇の徐州相王(中国語版)での匡章との会話)。 紀元前322年、縦横家の張儀が、連衡策を背景に斉・楚との主戦論を説くと、魏では主戦論が主流になった。恵施は、合従策的な非戦論を説いたが支持されず、魏を去ることになった。その際、恵王に諫言的な発言をしている(『韓非子』内儲説上篇、『戦国策』魏策一)。なお、同じ年に孟子が魏を訪れているが、恵施と孟子の交流は伝わらない。 魏を去った後は、楚を訪ねたが拒絶され、そこから転じて宋の康王の庇護下に入った(『戦国策』楚策三)。
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