高橋と大野剣友会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 15:17 UTC 版)
高橋が初めて殺陣師を任じたのはテレビ映画『柔道一直線』(1969年)であるが、これは師匠の大野の推薦によるものだった。大野はこの抜擢について、「ああいう番組は若い頭脳でないといけないから一俊に任せた」と語っていて、来歴にある通り25、6歳の若者が一番組の殺陣師を務めることは異例中の異例であり、番組制作責任者の内田としては「これはテストであり、2話だけやらせるから精いっぱいやって腕前を見せてみろ」という程度の扱いだった。だが、結果として高橋による斬新なアクションは、同番組を2年にわたるロングランヒットに導くこととなった。 当時の高橋は演出家を志望しており、「チャンバラが好きだったから殺陣はいいが、剣友会や殺陣師といったものを目指していたわけではなく、自分をいきなり殺陣師に推薦した大野師匠に対して、ひどいよオヤジと恨んだ」と述懐している。トランポリンを駆使した立体的な立ち回りを生みだすため、喫茶店ではいつもタバコの箱とライターを手にして、カラミのアイディアを創案していたという。晩年、入院先を見舞いに訪ねた平山によると、病室で『変身忍者嵐』のビデオを熱心に見返していて、「この殺陣は今見てもすごい」と平山に語っていたという。 『柔道一直線』では漫画の必殺技をいかに映像化するかに苦心したため、演技者の両足を縄で縛って逆さづりにし、振り回したこともある。神太郎は「この番組に出てからは、他でどんなすごいアクションをやらされても驚かなくなった」と語っている。高橋は同番組について、「どんな素晴らしい技を考えついても、カラミの人にこんな無理な体技は出来ないといわれると殺陣師失格。それが怖かった」と述懐している。
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