駒台の発明者
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/05/17 15:59 UTC 版)
駒台の使用は割と新しく、江戸時代には存在しなかった。対局の際には駒箱や懐紙を盤側に置き、それを駒置きにしていたという。 十三世名人関根金次郎は駒台の発明者に関する随筆を著している。駒台の発案者の飯塚力造は品川で貸座敷(女郎屋)を営んでいた愛棋家で、関根とともに京橋に帝国将棋所を作り、そのスポンサーとなったという。 京橋の新富町(しんとみちやう)に、小松将棋所といふのがあつた。こゝの主人は小松三香(さんきやう)と云ひ、将棋は四段であつたが、ある日、わたしがたづねて行くと、「ちやうどいゝところへきた。──品川に川島楼という貸座敷があるが、その飯塚といふ主人が将棋が好きで、そこへ行くと飲ましてくれるし、また褒美にありつけるかも知れぬ。もし、暇だつたら行つてみたらよからう。」といふ。(中略)ところで、現在つかはれてゐるやうな将棋の駒台を発明したのは、実はこの飯塚さんであつた。飯塚さんが駒台を発案するまでは、高段者は半紙を四つに折つてその上に駒を置いてゐたものなのである。ところが、最初飯塚さんはお雛様にいろんなお供へものをするあの飾台(かざりだい)からヒントを得て、さういふものがあつたならば、手でとるのにも便利だし、眼で見るのにもハツキリするといふところから、工夫に工夫をこらして、現在用ひ(ママ)られてゐるやうな形式にまで発展させ完成させたのであつた。 — 団鬼六編、『日本の名随筆 別巻8 将棋』
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