首相・外相としての活躍
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「グスタフ・シュトレーゼマン」の記事における「首相・外相としての活躍」の解説
ドイツからの賠償金取り立てを目論むフランス軍がルール地方を占領し、インフレーションが亢進していた1923年8月に首相兼外務大臣に就任、ブルジョア保守派・中道派・社会民主党からなる大連立政権を組織した。首相としては暫くして財務大臣になったハンス・ルターや帝国通貨全権委員となったヒャルマル・シャハトと共にレンテンマルクに切り替えるデノミネーションを実施、インフレを沈静化させるのに成功した。しかしミュンヘン一揆の首謀者の処遇が問題化し、また右派の支配するバイエルン州に友好的なのに対して左派の支配するザクセン州には敵対的だったことが批判され、大連立から社会民主党が離脱。内閣不信任案が可決され、3ヶ月で首相を辞任した。 その後はマルクス内閣に外務大臣として入閣。続く複数の内閣で外相を務めた彼はフランスとの関係正常化に努め、1924年にドーズ案によって賠償金の減額に成功、1925年にはイギリス・フランス・イタリア・ベルギーとロカルノ条約を締結し相互不可侵を約し、ドイツは国際連盟への加盟を認められた。このロカルノ条約の締結に尽力したとして翌1926年にアリスティード・ブリアン(フランス外相)と共にノーベル平和賞を受賞した。彼はフリーメイソンの会員であった。国際汎ヨーロッパ連合の共同設立者でもあるフランス首相エドゥアール・エリオなどもそう確信していたというが、彼は実際にフリーメイソンであり、当時それが広く知られていたことは、ドイツの愛国主義者から非難される要因となった。スイスのフリーメイソン団体はシュトレーゼマンに「ブラザー(つまりフリーメイソン)・ブリアン」とともにノーベル賞を受賞したことへの祝い状を送った。
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