館山藩の成立と改易
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 06:10 UTC 版)
「館山藩」を参照 義頼の跡を継いだ里見義康は、小田原征伐に参陣するも、惣無事令違反を犯したために秀吉の怒りを買った。これにより上総・下総は没収され、安房一国のみが安堵された。このとき徳川家康がとりなしたことにより、以降里見氏は徳川氏と誼(よしみ)を通じるようになる。 慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦い後、論功行賞によって常陸鹿島領3万石が加増され、館山藩は都合12万2000石の大名となった。また、義康の弟の里見忠重も上野板鼻1万石の藩主に任じられた[要ページ番号]。だが、慶長18年(1613年)に里見忠重が突如改易処分となり、翌慶長19年(1614年)には宗家の里見忠義も舅(しゅうと)である大久保忠隣失脚に連座して安房を没収され、鹿島の代替地として伯耆倉吉3万石に転封となった。しかし実際は、彼には100人扶持ほどの糧米しか与えられておらず、配流と同じ扱いだった。そして元和8年(1622年)、忠義が病死すると、跡継ぎがいないとして改易された。
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