顕正寺の消滅
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/02 02:58 UTC 版)
2002年、浅井は「顕正寺を改築する」と発表、翌2003年、改築の成った建物を「冨士大石寺顕正会典礼院」との名称で発表し、それは納骨堂と葬儀場の施設で、管理は顕正会の在家幹部が行うことも明らかにされた。しかし、「顕正寺」の時代から、住職が常駐するようにはなっておらず、僧侶が住むはずの庫裏には在家幹部が宿泊・滞在して管理を行ってきたのであり、このことに特別な意味はない。そもそも顕正寺自体が安普請であり、竣工直後に地盤沈下によって本堂が傾いた為に慌てて修復工事を行った結果、須弥壇の高さを縮小せざるを得なくなり、小幅の板曼荼羅すらもその3分の1程度が欄間に隠れてしまうといった有様であったので、この改築は後手であったと言わざるを得ない。また、村松は常に浅井の講義で勉強をしており、僧侶が教える側、在家が学ぶ側、という日蓮正宗のあり方とは異なる路線をとってきたのであるから、村松を追放したのも時のしからしむるところといえるであろう。
※この「顕正寺の消滅」の解説は、「護法山顕正寺」の解説の一部です。
「顕正寺の消滅」を含む「護法山顕正寺」の記事については、「護法山顕正寺」の概要を参照ください。
- 顕正寺の消滅のページへのリンク