非行少女 (1963年の映画)とは? わかりやすく解説

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非行少女 (1963年の映画)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/27 07:27 UTC 版)

非行少女
監督 浦山桐郎
脚本 石堂淑朗
浦山桐郎
原作 森山啓 『三郎と若枝』(『青い靴』)
出演者 和泉雅子
音楽 黛敏郎
撮影 高村倉太郎
編集 丹治睦夫
製作会社 日活[1]
配給 日活[1]
公開
上映時間 114分[1][4]
製作国 日本
言語 日本語
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非行少女』(ひこうしょうじょ)は、1963年に公開された浦山桐郎監督の日本映画[1]

同年7月開催の第3回モスクワ国際映画祭に出品され、金賞を受賞した[5]

あらすじ

十五歳の若枝は学校にも通わず怪しげなバーで小銭稼ぎをしていたが、酔客に絡まれるのに嫌気が差して女給のハイヒールを攫って店を飛び出した。東京で仕事に失敗して内灘町に還って来た二十一歳の三郎は、町会議員の立候補を控えた長兄太郎への引け目と、職安通いの肩身の狭い毎日を送っていた。そんな幼馴染の二人は、金沢の街で再会した。十年前の内灘闘争で三郎の兄と若枝の父親長吉は対立し町にも未だしこりを残していたが、若い二人に溝はなく打ち解けた。若枝は酒飲みの父親と、浮気性な継母のいる家庭の事情を話した。三郎はパンツと不似合いなハイヒールを履いていた若枝に、手持ちの金から百貨店でチェックのスカートを買い与えた。喜んだ若枝は三郎を隠れ家にしている、砂浜に遺された弾薬庫跡へ案内した。若枝をこれ以上堕落させまいと決心した三郎は、翌日から弾薬庫跡で遅れた勉強を教え始めた。人の優しさに包まれ感涙する若枝を三郎は強く抱擁した。

しかし次第に弾薬庫跡に来なくなった若枝を秋季祭礼で見かけた三郎は、彼女を問いただすが勉強への意欲を失ったと云うのだった。家に帰った三郎は若枝が学校へ盗みに入ったなど良からぬ話を聞いて無力感を憶え、若枝との関係を責める高圧的な兄と衝突し家にも居場所を失う。弾薬庫跡に置き手紙を残して三郎は、遠縁の家の養鶏場を手伝うため内灘町を離れていった。若枝は金沢で女郎屋を営むおばの元に引き取られるが、情事のあとも生々しい環境に嫌気が差してここも飛び出す。夜になって三郎の働く養鶏場に若枝は訪れたが、三郎は彼女に対して冷淡で失意を抱いて若枝は立ち去った。頼る人も場所もない若枝は、砂浜で膝を抱いて泣き伏すしかなかった。そんな若枝は先日三郎と話した鶏舎に忍び込み、ローソクを灯して物想いに耽っていたが、ローソクから失火し鶏舎を全焼させてしまう。

放火の疑いも消えず金沢の児童相談所に預けられた若枝は、非行少女の教護院である"北陸学園"に送られた。当初は粗暴な態度で他の入園者と衝突することもあったが、次第に圭角が取れて穏やかな人柄に変化していった。火事の影響で町に居づらくなった三郎は家から有り金を攫って出奔し、金沢でバーテンをしながら細々と暮していたが、つまらぬ喧嘩沙汰を起こすなどやさぐれた日を送っていた。そんなある日、河原で釣りをしていた三郎は、村人らにヤジられながら堤防でマラソンをしている若枝が言いがかりで捕まるが、同園の少女らの加勢で逃げ出すのを見かけた。年末年始の帰省のため人気の絶えた"北陸学園"に居残っていた若枝は、雪の降る晩に窓辺で三郎に呼びかけられた。一昨日の堤防での出来事を見かけ、会いたくなったのだと云う。胸の裡を吐露したふたりは、窓越しに接吻を交わした。

三郎は兄に詫びをいれて実家に戻り、金属加工の工場で居場所を見いだす。退園後に備えて若枝はミシンを習得するが、その表情は沈鬱だった。大阪で縫製の仕事に就くことになった若枝は、園長夫妻に三郎宛の手紙を託して迎えの長吉と園生達に見送られ退園した。途中で長吉と別れた若枝は、金沢へ向かう電車の窓から以前盗んだハイヒールを川に投げ捨てた。若枝の退園日に早退した三郎の乗る軽トラが帰路の長吉と行き会い、事情を聞いて車を金沢駅に廻す。三郎は駅構内で見つけた若枝を連れて入った喫茶室で、黙って北陸から離れようとした真意を問い、大阪行きを断念するよう懇願した。若枝は涙ながらに、トラブルメーカーの自分が三郎の重荷になることを怯れたからだと語った。喫茶室の喧騒と泣き伏す若枝をまえに、三郎の意識は刹那に現実感を失うが意識が戻ると席から立ちあがり、発車が迫った大阪行き汽車のホームへ若枝の手を曳いて駅構内を駆け抜けた。

製作・撮影

新聞広告。併映は西河克己監督の『雨の中に消えて』。

キューポラのある街』(1962年4月8日公開)のプロデューサーを務めた大塚和は監督の浦山桐郎と、大島渚の映画の脚本家として知られた石堂淑朗を引き合わせた。浦山は、『別冊小説新潮』1962年7月号に掲載された森山啓の小説『三郎と若枝』の脚本を頼みたい、と石堂に話した[6]。浦山は数多くの教護院(現・児童自立支援施設)を取材したのちに脚本に取り掛かった[7][8]。浦山と石堂が共同で書いた脚本は『映画評論』1963年1月号に掲載された。

1962年11月にクランクイン。浦山は主役の和泉雅子をロケ先の実際の教護院に入れ、そこに暮らす少女たちと三日ほど生活させた上でリハーサルを繰り返した[3]。教護院の子どもたちも和泉とともに出演した[9]。内灘町の 加能学園がロケ撮影地として使われた[10]。和泉と浜田光夫は日活の看板俳優だったため、正月映画に出演しなければならず、12月に撮影は中断。1963年1月に撮影は再開[11]。映画は内灘闘争がストーリーの要の一つであり、内灘町の海岸の弾薬庫などで撮影が行われた[注 1]。いくつかの海岸のシーンは費用の関係で茨城県鹿島町(現・鹿嶋市)で撮られた[12]。ラストシーンの撮影は白山市加賀笠間駅で行われた[10]。三郎(浜田光夫)が若枝(和泉雅子)のために朗読する詩は三好達治の「汝の薪をはこべ」である。

1963年3月17日に公開された。併映は西河克己監督の『雨の中に消えて』だった。

同年7月、第3回モスクワ国際映画祭に出品された。4日目の7月10日に上映され[3]、ベリコ・ブライーチ監督の『夕焼けの戦場』、ヤン・カダールエルマール・クロスの共同監督の『Smrt si ríká Engelchen』とともに金賞を受賞した。グランプリをとったのはフェデリコ・フェリーニの『8 1/2』だった。映画祭に出席した浦山は『8 1/2』に叩きのめされた。ソ連からフランスに入るとパリの映画館で再び『8 1/2』を見た[13][14]。影響を受け、浦山は以後、シンボリックな技法を作品に取り入れるようになった[注 2]

スタッフ

キャスト

和泉雅子浜田光夫

受賞歴

脚注

注釈

  1. ^ 三郎(浜田光夫)が若枝(和泉雅子)に向けたモノローグのシーンで、三郎はこう語る。「10年前や。俺も小学生やったけんど、毎日座り込みをやった。初めのころはみんないっしょやった。しかし現実に弾が撃たれて闘いの目標がなくなってくると、補償金目当ての切り崩しが目立ってきてな。うちの兄貴とおめえの父ちゃんはお互いに反対派にわかれて、いがみようた。闘争がうやむやに終わった今もあの時のしこりはまだ残っとるわ」
  2. ^ 浦山の作品を高く評価し、交流のあった作家の長部日出雄は次のように述べている。「浦山さんはイタリアンリアリズムにすごい影響受けて、いわば一種の詩的リアリズムってものがあの人の本領だったと思うんですよね。ところが『非行少女』を持ってモスクワ映画祭行った時にフェリーニを見て、叩きのめされるわけですよね。こんなすごい映画はないと。帰って来てからね、もうリアリズムの時代じゃないって言い始めたわけですよ。で、それからの映画の中にはですねえ、なんかこうシンボリックな絵が入るんですよ。これがだいたい(笑)出来がよくないんですよね」[15]

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac kinenote.
  2. ^ 非行少女 - IMDb(英語)
  3. ^ a b c 『朝日新聞』1963年7月24日付夕刊、5面、「モスクワ国際映画祭で金賞に輝いた『非行少女』 浦山監督もステージに」。
  4. ^ a b c allcinema.
  5. ^ a b c IMDB.com: Awards for Each Day I Cry”. imdb.com. 2021年1月3日閲覧。
  6. ^ 原一男 1998, pp. 130–131.
  7. ^ 『毎日新聞』1963年1月12付夕刊、5面、「あすをになう監督(4)浦山桐郎」。
  8. ^ 『朝日新聞』1963年1月8日付夕刊、5面、「『非行少女』と取組む 気鋭の浦山監督が第二作」。
  9. ^ 第91回「非行少女」”. 日本映画映像文化振興センター. 2024年12月2日閲覧。
  10. ^ a b 非行少女”. 日活. 2024年12月2日閲覧。
  11. ^ 原一男 1998, pp. 482–483.
  12. ^ 第68回「非行少女」”. 日本映画映像文化振興センター (2000年11月4日). 2024年12月2日閲覧。
  13. ^ 長部日出雄「フェリーニの『8 1/2』」 『映画評論』1965年5月号、26-35頁。
  14. ^ 浦山桐郎「東の想い出」 『海外旅行と海外生活 改訂版』白陵社、1968年。126-132頁。
  15. ^ 原一男 1998, p. 387.
  16. ^ a b c d e f g h i j k l 国立映画アーカイブ.
  17. ^ IMDb.
  18. ^ “キネマ旬報ベスト・テン1963年・第37回”. キネマ旬報社. 1963. 2022年1月25日閲覧.
  19. ^ 毎日映画コンクール 第18回(1963年)”. 毎日新聞社. 2022年1月25日閲覧。

参考文献

関連項目

外部リンク




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