青年期 - ジム設立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/25 06:33 UTC 版)
中学時代にケンカで負けた悔しさからボクシングを始める。呉市にあった芸南高校を1年で中退して上京。野口ボクシングジムに入門しフライ級とバンタム級で活躍する。日本チャンピオンにはなれなかったが、国内ランキングでは1位、師匠同様のブルファイター型のボクサーとして目黒ジムの四天王と呼ばれた。後の三迫ジム初代会長三迫仁志は同い年の兄弟子、会長の長男野口修とは同い年の親友だった。 1958年に引退後、しばらくはマネージャーとして活動するが、ボクシングから身を引くことと決意し、ジムの後輩である山神淳一を大番頭にとんかつ屋を開業する。金平が現役時代に住み込みで働いた目黒雅叙園仕込みの味付けは評判を呼んだという。ある日、新規にアルバイトを募集したところ、応募してきたのが海老原博幸であった。求人広告には「特典:ボクシング教えます」の一行が書き加えてあった。海老原とグローブを交え、天与の才能を見出した金平は、繁盛していた店を畳み1959年、「金平ジム」(のちの協栄ジム)を設立する。練習生は海老原一人であった。
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