雲石街道
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/06 16:32 UTC 版)
慶長5年(1600年)広島藩藩主となった福島氏は広島城下とともに街道筋を整備したと言われている。その次に入封した浅野氏がそれを引き継ぎ、幕府による諸国巡見使派遣が決まったのを機に、藩は街道網を本格的に整備し、この道は道路幅7尺(約2.1 m)とし、寛永10年(1633年)脇街道「雲石街道(赤名越)」(雲石路、出雲街道とも)として正式に公道指定した。 県道沿いにある「馬頭観音堂」。江戸中期、人馬往来の安全祈願に建立されたと推定されている。信仰も厚く、かつては祭りも行われていた。県道工事によって2度移転、昭和初期に現在地へ。 霧切谷遊歩道入口。下村彦一は旧県道が整備される前から本道として用いられていたと推察している。 旧県道の石畳と中村憲吉の歌碑。右側が旧県道で、当時1 kmにおよぶ敷石の道はここと箱根峠だけだったという。左奥のガードレールが現県道。 年貢の運搬はそれ以前は吉田道沿いである三篠川による舟運が主流であったが、公道指定されたことにより雲石街道で運ばれるようになった。藩内の商業活動の発展に伴い街道は人や物流の往来が活発になった。ただこの峠道は街道屈指の難所であった。『芸藩通志』には「坂あり、登り八丁険なり」と記されている(8丁(町)=約873 m)。また馬子唄も残っている。 馬が物言うた上根の坂で 上りちぢめて下りのべ — 馬子唄の一節、 藩は街道の難所を改良工事しているが、この峠では行われなかった。
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