集権派と分権派の対立
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 13:12 UTC 版)
「青年トルコ人革命」の記事における「集権派と分権派の対立」の解説
青年トルコ人革命の結果、オスマン帝国では憲政が復活し、専制政治が否定された。憲政の復活という出来事は国内外で大いに歓迎され、きっかけを作ったニヤーズィとエンヴェルは「英雄」としてもてはやされた。一方で、専制打倒後の新体制をどのようなものにするのかという問題が再浮上してきた。 もともと「青年トルコ人」の中には専制打倒後の体制を巡る対立があり、プレンス・サバハッティンに代表される地方分権派と、アフメト・ルザに代表される中央集権派が存在していた。1902年には運動方針の統一を図るべくパリで第一回青年トルコ人会議が開催されたが、これが物別れに終わったこともあって、遂に専制を打倒する瞬間まで両者は専制の打倒という一点以外は共通の運動方針を定めることが出来なかった。このような運動方針の違いに個人的な対立も絡まって、両者の間には深い溝が出来ていた。 専制打倒後のキャスティング・ボートを握ったサロニカの青年将校達は集権派に属していたが、一方で憲政復活運動全体を見渡せば多数派であったのは分権派の方であって、サロニカの青年将校たちのグループはあくまでも少数派に過ぎないというねじれが生じていた。革命後の下院選挙ではプレンス・サバハッティンらの分権派は「自由党」を結成したが、政党化した「統一と進歩委員会」のネームバリューに押されて選挙で惨敗し、かつての多数派でありながら新体制から排除されていることを認めざるを得なかった。
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