雅楽家・チェロ奏者として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 14:38 UTC 版)
1879年(明治12年)に芝葛鎮や小篠秀一らによる西洋管弦楽協会の設立と同時に幹事を務める。この頃、お雇い外国人として来日したフランツ・エッケルトやルーサー・ホワイティング・メーソンらに師事し、日本で初のバイオリンおよびチェロの奏者としての資格を取得した。翌1880年(明治13年)より音楽取調掛に任命され、メーソンよりピアノの演奏や唱歌、和声を学ぶ。1881年(明治14年)には文部省(現在の文部科学省)に勤務し、宮内で初のチェロ奏者として名を馳せた。 後にメーソンの補佐役となり、東京第一師範学校や女子師範学校、学習院で教鞭を執ったり、唱歌や音律に関する研究や編纂にあたった。1886年(明治19年)に奥好義や鳥居忱らと親交を持った事により、千代田区神田猿楽町に唱歌会を開く。1889年(明治22年)には東京音楽学校(現在の東京芸術大学)にて教鞭を執り、後に教授に昇格した。昇格後は1896年(明治28年)の退職後も和声や唱歌を講義し、音楽教授法の制定に携わった。同時期に作曲攻究会を創設し、同会から小山作之助や幸田延、安藤幸、滝廉太郎等多くの著名な音楽家が輩出した。後に軍歌の作曲も手がける。
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