陽夏之戦とは? わかりやすく解説

陽夏之戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/12 07:39 UTC 版)

金兆龍」の記事における「陽夏之戦」の解説

義成功後の10月15日、後隊一排長。17日敢死隊八正目に任ぜられる。19日漢口の劉家廟、頭道街一帯防御命じられる翌日夜、部隊率いて三道辿り着き、そこで清軍と遭遇交戦した。この戦闘敢死第一副隊長の徐兆斌が戦死したため、22日後任副隊長27日馮国璋率い北洋第1軍段祺瑞率い第2軍漢口到着し、劉家廟、大智一帯激戦を展開。29日中央二隊指揮官昇進した敢死隊と南京敢死機関銃隊を率いて劉王廟から張美之巷(中国語版一帯死守した。 11月17日漢陽撤退。金は漢江利用して鎮圧軍を止められないかと策したが、鎮圧軍の防備強固だったため断念した翌日敢死第一隊長の方興が辞任し、金が隊長就任。琴断口到着し、そこから架橋し渡河漢豊面粉廠にて丸一日戦闘続け、鄔家巷に撤退した敢死隊一、三両隊、南京学生一隊率いて三眼防備命じられ、また副隊長の蒋杰に命じて10余人選抜し泳いで家山奪還に向かわせた。一連の戦闘は7昼夜行われその間ほとんど就寝していなかった。漢陽陥落後、敢死隊は護軍隊に改編され、五標軍械、のち九標三営管帯に昇進し両望に駐屯間もなくして、黄陂孝感一帯駐屯した。金兆龍はとても勇敢で多大な功績上げたが、同僚との不和原因で軍を退役した北京政府成立後湖北督軍差遣員兼陸軍部候差員、武漢稽査処偵探員として勤務したが、北伐完了後に罷免され、「湖北清郷総局」の黄岡県補佐務めた後、1933年病没した。

※この「陽夏之戦」の解説は、「金兆龍」の解説の一部です。
「陽夏之戦」を含む「金兆龍」の記事については、「金兆龍」の概要を参照ください。

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