陸奥国政への介入
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「日本の古代東北経営」の記事における「陸奥国政への介入」の解説
光仁天皇即位直前の神護景雲4年9月16日(770年10月9日)、道鏡の姦計を告げて排斥した功績により、坂上苅田麻呂が鎮守将軍に叙任された。苅田麻呂は道嶋嶋足とともに藤原仲麻呂の乱で武功を挙げた人物である。しかし在任期間は僅か6ヵ月で、翌宝亀2年閏3月1日(771年4月20日)には後任の佐伯美濃が鎮守将軍と陸奥守を兼任している。 中央政府政界と陸奥国政界の捻れ現象に対して、光仁朝は道嶋氏の陸奥国支配体制に次第に抑圧・介入の動きを強めていく。 宝亀2年から3年の夏にかけて、陸奥国司の陣容が大きく変化しつつあった。2年閏3月には佐伯美濃が陸奥守と鎮守将軍を兼ね、7月には笠道引が陸奥介となり、3年4月には粟田鷹主が陸奥員外介となっている。道嶋氏寄りとみられる前陸奥守石川名足と前陸奥介田口安麻呂の2人もほどなく都へ帰還したとみられ、道嶋三山も鷹主と入れ替わりで陸奥員外介の任を退いた。 宝亀3年9月27日(772年10月27日)、大伴駿河麻呂が陸奥按察使に任命された。駿河麻呂は老齢を理由に固辞したが、光仁天皇は「此の国(陸奥)は、元来、人を択び、以て其の任を授く」と固辞を許さなかった。翌年7月21日(773年8月13日)に駿河麻呂は鎮守将軍も兼ねることになる。
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