降灰問題と川崎工場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 16:17 UTC 版)
深川工場がロータリーキルン(回転窯)を導入してセメントを大量生産すると、工場の周辺地域に灰が降るようになった。その結果、1911年(明治44年)に江東区の団体と協議して、1916年(大正5年)の末までに工場を移転することになった。まず、川崎の大師河原町池上新田地先の海面埋立地への移転を申請したが、海苔や農業に悪影響があると反対された。それで、鶴見埋立組合(東亜建設工業)埋立計画地(浅野埋立)を移転先に予定して、浅野セメントの関係者が埋立組合の発起人になった。ところが、埋立工事の完成が移転の期限に間に合いそうにないので、川崎の田島村大島新田湿地に盛土して移転することになった。それでも工場の完成が間に合わなかったので、1916年(大正5年)11月に移転延期で住民と合意した。1916年(大正5年)7月に米国ロサンジェルスの Western Precipitation Company からコットレル式電気集塵機の特許と設備を購入すると、二人の技師が来日して排出ガスの量と速度を測定してから装置を設計し、1917年(大正6年)3〜5月に米国から装置を輸入して設置して、1917年(大正6年)12月23日に本格的に稼働したところ、降灰が改善されたので、1917年(大正6年)12月25日に移転撤回で住民側代表と合意した。結果的に、川崎工場が1917年(大正6年)7月に操業を開始すると、工場が増えたせいで生産量が増えて利益も増えた。また、コットレル式電気集塵機が集めた煙塵を再焼してカリ塩類を生産してカリ肥料として販売した。これが日本のセメント工場が集塵装置を導入して成功した最初の事例だった。その後で門司工場と川崎工場にも設置した。
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