関税と帝国統一への反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/12 07:09 UTC 版)
「ウィルフリッド・ローリエ」の記事における「関税と帝国統一への反対」の解説
「同じ悪でもまだましな方の悪」(レッサー・エヴィル、Lesser Evil)である国家的調和と政治という名のもとで、ローリエは妥協策を進めた。クリフォード・シフトンとともに取りかかった移民政策の再編とウィリアム・フィールディングとの英帝国内特恵関税(英語版)に基づく妥協案、フィールディング関税を完成させた後、1897年には彼にとって初めての植民地会議に赴き、帝国内統一案には反対ながら、ボーア戦争でイギリスに対しカナダからの物資と輸送の援助、その経費負担にはぎりぎり同意し、義勇兵のみの派兵1,000人(後に7300人)と62万ポンドを負担した。しかしこれは、関与を否定するフランス系カナダ人の非難の的となった。 1900年以後、ローリエはカナダを全力で引っ張った。ロンドンの植民地会議では、帝国の統一へのすべての提案に再び反対した。1903年には、アラスカ国境をめぐるアメリカとの会談に失敗した。アメリカによる併合を防ぐため、カナダは1898年6月にユーコン準州を創設しており、互いが自国に都合のよい国境線を主張していたが、これにイギリスが介入して結局決裂した。
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