開催時の背景
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/07 07:21 UTC 版)
大躍進政策により、水利建設や鉄鋼生産に農村労働力の多くが奪われてしまった結果、1958年の春には各地で食料不足が蔓延し、深刻な飢餓の兆候が現れていた。1958年11月の第8期6中全会で毛沢東は大躍進が失敗した責任をとる形で国家主席の辞任を表明し、翌1959年の第2期全人代で劉少奇党副主席が新国家主席に選出、毛沢東の権威は低下しつつあった。毛自身、1958年11月には大躍進の行き過ぎの是正に取り掛かっており、廬山会議に先立つ6月28日には「人々の頭を冷やし、冷静になって政治経済学を語ることが必要である」と周恩来に電話で語っていた。廬山会議は大躍進の行き過ぎを是正する精神を他の指導者たちに行き渡らせる機会となるはずであった。 6月29日、廬山に向かう船中で毛は会議の課題を提議した。それは19の項目からなり、特に第2項目の「形勢」と昨年度の大躍進関係の反省からなる数項目が眼目であった。そして三面紅旗(総路線、大躍進、人民公社)政策の失敗を討論する場となるのは明白であった。 その雰囲気を察していた毛は、とくに彭徳懐が批判の先頭に立っていることについて気分を害し「人我を侵さざれば、我人を侵さず。人もし我を侵せば、我人を殺す」との警句を吐き、来るべき会議に備えていた。毛は「神仙会議」と称して自由な意見交換の場を表向きは作っていたが、実は「蛇を穴からおびき寄せる」やりかたで、彭ら反対者をあぶりだすことを策していたのである。
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