門訴・越訴と「三義民」処刑
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「万石騒動」の記事における「門訴・越訴と「三義民」処刑」の解説
正徳元年(1711年)9月、川井が各村に割り当てた年貢量は、従来の2倍近いものであった。これに対して、農民600名が10月9日から10日間に渡って北条陣屋(現在の館山警察署付近)に押し寄せて減免を求めた(門訴)。江戸屋敷に戻った川井の意を受けた部下は取り合わず、また川井は江戸屋敷に名主を呼び出して圧力を加え、首謀者を探った。600名の農民は江戸に出て、11月2日に江戸屋敷にいる藩主への門訴をおこなった。川井はいったんは農民の要求を呑んだように装い、年貢減免の墨付を与えて農民たちを国許に帰した。 しかし川井は農民たちを追う形で北条陣屋に赴き、11月13日に名主を陣屋に呼び出して墨付の奪還を図り、6名を投獄。11月26日に捕らえた6名のうち3名(湊村の秋山角左衛門、国分村の飯田長次郎、薗村の根本五左衛門)を国分村萱野の刑場で処刑、その妻子は追放し家財は没収するという弾圧に出た。また、農民に協力した代官行貝弥五兵衛国定(42歳)およびその息子の弥七郎恒興(21歳)を処刑した。行貝は国分村出身の地代官で、国分村の名主飯田長次郎とも親しい間柄であった。 名主の投獄を受け、農民側は再び江戸で訴えを起こすことを決議、代表者が江戸に上り、11月20日に老中の秋元喬知に駕籠訴(直訴・越訴)を行ったが却下された。12月4日には老中阿部正喬への駕籠訴が決行された結果、幕府は訴えを取り上げて審理が行われることになった。12月25日、評定所は農民の訴えをほぼ認め、川井は投獄された。
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