長門国の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/08/25 15:46 UTC 版)
正平10年/文和4年(1355年)頃から長門に進出。長門守護であった厚東氏との戦いに突入する。厚東義武は抵抗するも遂には正平13年/延文3年(1358年)正月、霜降城は落城、6月には長府を陥落させて長門国を平定した。その後も厚東義武の抵抗が続いたものの、正平14年/延文4年(1359年)12月26日厚東氏最後の拠点であった豊浦郡四王寺城を攻略。義武方の武将、厚東某、富永又三郎を斬った。四王寺城が落城したため義武は長門を捨て、故地である豊前企救郡に逃亡した。正平13年/延文3年(1358年)6月23日、弘世は長門守護職にも任じられ、大内氏が防長両国の守護となった。厚東義武は長門復帰を目指すが、復帰には至らなかった。 長門国の一宮である住吉神社と二宮である忌宮神社は大内氏が攻め込むと直ちに内応した。弘世も社領を保護するとともに、長門の国内安定後には直ちに両社の再建に乗り出し、一宮は建徳元年/応安3年(1370年)3月11日に遷宮式が執行、二宮は正平22年/貞治6年(1367年)に社殿の再建を完了させている。 だが、弘世が盟主と頼んだ足利直冬は上洛を目指すべく本拠を石見国に移し、次第に両者の関係は希薄化していった。
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