長野と善光寺とは? わかりやすく解説

長野と善光寺

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/31 08:58 UTC 版)

長野市」の記事における「長野と善光寺」の解説

長野村」という地名は、中世末期から見られるようである。 現在の長野市大字長野上長野・下長野、また大字西長野西長野・袖長野・中長野という小字残されており、「長野」とは現在の信州大学教育学部付近から善光寺参道付近にかけての緩傾斜地を呼んだ地名だと思われる中世末から近世にかけての「水内郡長野村」は、おおよそ現在の長野市大字長野相当する1601年慶長6年)に、同郡箱清水七瀬、及び三輪村一部間もなく平柴変更と共に善光寺領とされた。 箱清水は、1875年明治8年)に長野町合併七瀬1876年明治9年)に鶴賀一部となり鶴賀町経て長野町へ、三輪村1889年明治22年)に三輪村平柴1889年明治22年)に安茂里村経ていずれも現在は長野市属する。長野村のうち、善光寺南の参道門前町として、また北国街道ルートとされたことから宿場町として発展して市街地化町場化)した。こうして市街地化した区域、および松代藩領でこれに隣接して同様に市街地化した妻科(現長野市大字南長野)および権堂(現長野市大字鶴賀一部)のそれぞれ一部含めて町場全体総称として善光寺町(または「善光寺宿」)という呼称が行われるようになったその結果長野村」とは、同村のうち町場の「善光寺町」および善光寺境内除いた北西部農村区域を指すものと理解されていた。 しかし、検地帳上の公的な名は善光寺町区域含めて長野村」であり、そのまま明治維新後に至った。すなわち、「善光寺町」とは本来「長野村」の一部であり、明治になってから「善光寺町」が「長野村」と改称されたわけではなく、「善光寺町」が「長野村」の旧称であったわけでもない

※この「長野と善光寺」の解説は、「長野市」の解説の一部です。
「長野と善光寺」を含む「長野市」の記事については、「長野市」の概要を参照ください。

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