銅製錬所の受け入れ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/13 16:51 UTC 版)
直島村では前近代的な産業基盤のまま明治中期から人口が増加した。次第に経済が停滞し、都市へ向けて人口が流出し始めるが、そのような直島にも近代化の波が押し寄せる。1916年(大正5年)、農漁業の不振で財政難に陥った村は三菱合資会社の打診した銅製錬所を受け入れる決断を行う。銅の製錬の際に出る亜硫酸ガスは、足尾銅山や別子銅山など各地で、山の木々をすべて枯らし下流で水害を起こすなどの煙害を引き起こし、瀬戸内海の犬島、四阪島、契島などの離島に各社の精錬所が移されつつあった。三菱も煙害の心配の少ない離島を探したが、農業や石材業などを抱える豊島は断り、農漁業が零細な直島は三菱の打診に最後の望みを託した。翌1917年(大正6年)、島の北端で三菱合資会社の中央製錬所が操業を開始すると、直島は三菱金属鉱業の企業城下町として急速に発展し、働き口が確保されたことによる人口流出の歯止めや豊富な税収によって、瀬戸内の離島のみならず、香川県内でも有数の裕福な自治体となっている。一方で、島の北半分および周囲の島々の木々がほとんど枯れるという煙害に悩んだ。
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