金融界での没落
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 14:56 UTC 版)
1918年(大正8年)に寺内正毅朝鮮総督の命令により、漢城銀行は内地に支店を設置したが、1923年(大正13年)に発生した関東大震災の影響を受け、東京支店が業績不振に陥り、1926年(昭和元年)には整理計画が立てられるまでになった。この危機的状況の中で韓が頭取に就任するが、1927年(昭和2年)に発生した昭和金融恐慌の影響により、整理計画が頓挫し、朝鮮総督府が直接介入に乗り出すことになった。総督府は資本金の半減や内地支店の閉鎖などの銀行整理案を作成するとともに、韓の頭取辞任を迫った。 1929年(昭和4年)に総督府によって「朝鮮信託業令」が公布されると、信託会社を設立し、財界中央への復帰を狙うようになる。当初は民間企業としての設立を目論んだが、金融界の反対により半官半民となったが、宇垣一成総督の擁護により補助金が支給された。1932年(昭和7年)に朝鮮信託が発足したが、金融界の反発により社長には就任せず、取締役会長に就いた。この出来事は韓が朝鮮金融界での没落を表すことになった。
※この「金融界での没落」の解説は、「韓相龍」の解説の一部です。
「金融界での没落」を含む「韓相龍」の記事については、「韓相龍」の概要を参照ください。
- 金融界での没落のページへのリンク