金の宣撫使として
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1211年(大安3年、辛未)、モンゴル軍の侵攻を受けた金朝は野狐嶺の戦いにおける惨敗によって長城以北の統制を失い、遼東方面では契丹人の耶律留哥が金軍を破り、モンゴル軍の助けを得て自立した。これを受けて、金朝朝廷は東北路招討使の官衙をタオル河流域の泰州から東方のスンガリ河流域の肇州に移し、これにあわせて耶律留哥討伐のため完顔鉄哥と蒲鮮万奴を派遣した。この時、蒲鮮万奴は完顔鉄哥と行動を別にして咸平府に駐屯しており、当初は北方の肇州から完顔鉄哥が、南方の咸平から蒲鮮万奴が、丁度その中間に位置する耶律留哥を挟み撃ちにする計画であったと見られる。 しかし、完顔鉄哥の方が軍が強力なことを忌避した蒲鮮万奴は騎兵2千を派遣するよう要請し、また独自に泰州から兵3千と戸口を咸平に移そうとした。蒲鮮万奴の「異志」を察知していた完顔鉄哥は蒲鮮万奴の要求を拒否したものの、蒲鮮万奴が宣撫使に昇格すると援軍を派遣しなかった罪により完顔鉄哥は殺害されてしまった。蒲鮮万奴の遼東派遣、咸平等路宣撫への任命が1214年(貞祐2年、甲戌)に行われたことは、モンゴル側の史料『聖武親征録』にも記載がある。 同年秋頃、自らに逆らう完顔鉄哥を排除した蒲鮮万奴は奥屯襄らとともに遂に耶律留哥討伐のため40万と号する大軍を率いて北上した。耶律留哥は蒲鮮万奴軍を帰仁県北の河沿いに迎え撃ち、激戦の末蒲鮮万奴軍は潰走して東京遼陽府まで逃れた。これを受けて金の宣宗は11月に詔を蒲鮮万奴・奥屯襄らに出し、「上京・遼東」は国家の重地であって、各軍は相互に協力して挽回せよと命じている。
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