金の宣撫使としてとは? わかりやすく解説

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金の宣撫使として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 08:54 UTC 版)

蒲鮮万奴」の記事における「金の宣撫使として」の解説

1211年大安3年辛未)、モンゴル軍の侵攻受けた金朝野狐嶺の戦いにおける惨敗によって長城以北統制失い遼東方面では契丹人耶律留哥金軍破りモンゴル軍助け得て自立した。これを受けて金朝朝廷東北路招討使の官衙タオル河流域の泰州から東方のスンガリ河流域の肇州移しこれにあわせて耶律留哥討伐のため完顔哥と蒲鮮万奴派遣した。この時、蒲鮮万奴完顔哥と行動別にして咸平府に駐屯しており、当初北方肇州から完顔哥が、南方咸平から蒲鮮万奴が、丁度その中間位置する耶律留哥挟み撃ちにする計画であったと見られる。 しかし、完顔哥の方が軍が強力なことを忌避し蒲鮮万奴騎兵2千を派遣するよう要請し、また独自に泰州から兵3千と戸口咸平移そうとした。蒲鮮万奴の「異志」を察知していた完顔哥は蒲鮮万奴要求拒否したものの、蒲鮮万奴宣撫使に昇格する援軍派遣しなかった罪により完顔哥は殺害されてしまった。蒲鮮万奴遼東派遣咸平等路宣撫への任命1214年貞祐2年甲戌)に行われたことは、モンゴル側の史料聖武親征録』にも記載がある。 同年秋頃、自らに逆らう完顔哥を排除した蒲鮮万奴は奥屯襄らとともに遂に耶律留哥討伐のため40万と号する大軍率いて北上した耶律留哥蒲鮮万奴軍を帰仁県北の河沿いに迎え撃ち激戦の末蒲鮮万奴軍は潰走して東京遼陽府まで逃れた。これを受けて金の宣宗11月に詔を蒲鮮万奴・奥屯襄らに出し、「上京遼東」は国家重地であって各軍相互に協力して挽回せよと命じている。

※この「金の宣撫使として」の解説は、「蒲鮮万奴」の解説の一部です。
「金の宣撫使として」を含む「蒲鮮万奴」の記事については、「蒲鮮万奴」の概要を参照ください。

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