野球好きに関するエピソード
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 04:26 UTC 版)
「大社義規」の記事における「野球好きに関するエピソード」の解説
広島東洋カープのオーナーだった松田耕平とともに、球界きっての野球好きのオーナーとしても有名であった。 日本ハムファイターズのオーナーとなる事が決まった際、同業者からは球団を持つ事に対して「そんな金がかかる事やめな」と多くの反対があったものの大社は意志を曲げなかった。 足しげく球場に観戦に通い、選手に声を掛けている姿はファンによく目撃され、オーナー在職中は新入団選手発表記者会見やプロ野球ドラフト会議にも毎年顔を出していた。 選手の仲人を数多く務めた。 白井一幸(元日本ハムファイターズヘッドコーチ)の話によると、大社は「やろうと思えば何でもできる」、「できると思えば必ずできる」という言葉を選手たちに言い聞かせてくれていたという。 まだ携帯電話やファックス、インターネットが無い時代、毎試合、球場に本社職員を派遣させ、試合経過を電話で随時報告してもらい、確認していた。 酒好きであったが、日本ハムの試合が行われている時は選手に失礼だからという理由でまったく飲まなかったという。 1981年の日本ハムのリーグ優勝の胴上げの時に着ていたユニフォームの背番号100は、オーナーとしては史上初の永久欠番となった(北海道日本ハム、2009年2月1日制定)。 2006年に日本ハムが44年振りの日本一を果たした際は、養子の啓二オーナーが持つ遺影という形ではあったが選手によって胴上げされた。これは、大社が日本ハム球団を心の底から愛していたことをはっきりと証明するものとなった。 2009年1月13日、特別表彰で野球殿堂入りを果たした。
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