野林格蔵
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のばやし かくぞう
野林 格蔵
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生誕 | 1853年(嘉永6年)10月11日[1]![]() |
死没 | 1891年(明治24年)9月28日(死体の発見日)[1]![]() |
別名 | 丹波ヨブ、野口勝造(小説『鳥ヶ岳(作者 船越昌)』の作中で使われた名前[2]) |
活動期間 | 明治時代 |
宗教 | キリスト教(プロテスタント) |
配偶者 | 名前不明 |
子供 | 萬蔵[1] |
親 | 父:亀蔵[3] 母:すみ[3](すみ子[1]) |
野林 格蔵(のばやし かくぞう)は、明治時代に現在の南丹市日吉町にいたキリスト教徒(キリシタン)。ハンセン病や信仰を忌み嫌われて迫害され、盲目で、一人山小屋で暮らしていた。旧約聖書『ヨブ記』の迫害と病魔に耐えて生きたヨブの物語にちなみ、信徒たちは蔵を「丹波ヨブ」と呼ぶようになった[3]。格蔵の生涯は、小説などで描かれている[2]。
生涯
年 | ヨブの略歴 | 丹波の動向 |
---|---|---|
1853年 | 胡麻村にて出生 | |
1879年ごろ | ハンセン病の微候 | 胡麻村でキリスト教の布教が始まる |
1884年 | 洗礼を受ける | 丹波教会設立。胡麻会堂が放火される |
1885年 | 自宅が放火される | |
1889年 | 失明 | |
1890年 | 山中の小屋に移り住む | |
1891年 | 死亡 |
野林家
1853年(嘉永6年)、野林格蔵は胡麻村(現在の南丹市日吉町)で父・亀蔵と母・すみの間に生まれた[1]。野林家は、田7反9畝、畑2反1畝で、綿打業も営む比較的豊かな農家であった[3]。格蔵は読み書きが多少でき、両親の生業によく仕えていた。格蔵は頑固者で大酒飲みのため人から嫌われていた[1]。
ハンセン病の発症
1879年(明治12年、26歳)ごろ、格蔵にハンセン病の微候が現れる。心配した両親(亀蔵とすみ)は、「医者よ薬よと財産を傾け、治療のために八方手を尽くした」という[1]。さらに、四国讃岐の金比羅宮に2度の参拝や、家の門前に毎夜のように常夜灯をともすなど、神仏にも熱心に祈願した。妻は格蔵の病気を忌み嫌い、4歳の息子・萬蔵を残して実家に去った[3]。
洗礼
格蔵は胡麻村の芦田謙造医師の勧誘を受け、丹波教会の父と慕われた村上太五平が胡麻村に伝道に来た際に初めて聖書の話を聞いた[4]。1884年(明治17年)6月の丹波第一基督教会(丹波教会)設立に参加し、初代信徒30名の1人としてマークウィス・ゴードン(アメリカ人宣教師、同志社英学校教師)から洗礼を受けた[1][5]。
迫害
胡麻村の福音伝道(伝道活動)により、キリスト教へ改宗する村人が増えた。これを好機として村上太五平伝道師や同志社英学校の教師および神学生たちが来援するようになった。それに対して、近所の仏教寺院の住職たちは村民を煽動して迫害を企てた。
1884年(明治17年)、村民は龍澤寺(日吉町東胡麻)に集まり三日三晩かけて謀議を凝らしてキリスト信徒との絶交を画策したり、信徒を呼びつけて誹謗するなどの手段で脅したりした。同年9月9日の夜、丹波教会の胡麻会堂が放火で全焼した[4]。翌年の1885年(明治18年)8月14日には、格蔵宅が放火された[3]。その後、「すべての信者宅を焼き払う」という流言飛後があり、信徒たちは不安に駆られた。ある妻女は、夫に「キリスト教信仰を捨てないと離縁する」と迫り、実家に逃げ出した。信徒たちは、放火に対して警察に告訴しなかった[1]。
家族との別れ・山中への移住
1888年(明治21年)ごろ、病毒で格蔵は目を冒しはじめた。同志社病院長のジョン・カッティング・ベリーから「癩病(らいびょう。ハンセン病のこと)が原因のために治療の効果は期待できない。この上は家族への電線を防ぐための注意が肝要である」と忠告を受けた[1]。この忠告を受け、息子の萬蔵を天田郡の笠屋に奉公に出した[3]。
1889年(明治22年)、父・亀蔵が死去。同年、格蔵は両目を失明し盲目となった。病毒は全身に広がり症状が悪化、村人たちから嫌悪しだしたため、1890年(明治23年)秋、村から離れた小山の森の中に小さな藁小屋を作り、一人で移り住んだ[3]。
山小屋生活
格蔵は、2・3羽の鶏と共に鳥ヶ岳の山中で自炊生活をした。小屋から谷底まで引っ張ってある綱を手探りにしながら、手桶を片手に炊事用の水を汲みに行き、三度の食事を作っていた[3]。
訪問者
ときおり胡麻村の信徒たちが見舞いにくることがあり、中でもある老婆は、格蔵の求める食品や日用品を買い整え、洗い物などに気を配った。小屋を慰問した人たちが「さぞや寂しいことかと」と言うと、格蔵は「いいえ、神さまがいつもわしとともにいて下さいますので、寂しいことなどありません」と答えた[1]。
格蔵の姉も訪問することがあったが、信徒や同情者から格蔵に恵まれた金銭を、格蔵が盲目であることをよいことに奪ったようである[1]。
救助
格蔵は発病以来の出費で、家財を失い、わずかの土地を残すのみとなっていた。稼ぐこともできず日々の食べ物にも困窮していた状態を見かねた訪問者が、政府の援助米を申請するよう格蔵に勧めた。しかし、わずかでも地所を持つ格蔵は「申請を出すことができない」と断った[1]。芦田謙造が格蔵の土地を買い取り、1890年(明治23年)3月から毎日米5合の支援を受けた[3]。
格蔵の生活は、各地から贈られてくる金銭により支えられていた。1891年(明治24年)、ゴードン宣教師は帰米に際して開いた集会で格蔵のことを語り、7円の寄付が集まった[1]。
毒物の混入
1891年(明治24年)3月、毒薬を浸した食べ物が格蔵に届けられた。同年7月には、飯櫃(めしびつ)の飯に毒薬がふりかけられた。格蔵はそれを食し激しい中毒に冒された。2回目の中毒はひどく、芦田謙造医師が駆け付けて治療を行ったが、効果がなかった。格蔵は衰弱した[1]。
最期
1891年(明治24年)9月24日、村上太五平伝道師が見舞いに来た際、格蔵はかすれた声でお願いがあるとして、「昨日までは丹波教会と前の牧師だった留岡幸助先生のために祈っていましたが、もう苦しくてできません。代わってください」と言った。村上が「ゴーン宣教師から7円の寄付があった」と伝えると、「1円を葬式費用に充て、残りは貯金してほしい」と依頼した[3]。
9月25日、胡麻村に住む信徒の西田新蔵が訪問。格蔵は「自分の遺骸があまりにも不潔なので葬式をしてもらえないのではないか」と案じたが、西田から「立派な式をする準備ができている」と告げられると、「もう思い残すことはない」と言った。9月28日、訪問者が格蔵の遺骸を発見した。各方面からの寄付で貯めた23円が残されていた[3]。
遺言
格蔵が西田に語った遺言は次の通りである。
“わしのもとにあるお金は、すべて神さまからのお恵みによるものです。どうぞわしが死んだら息子の萬蔵に渡してください。ですが神様から贈れらたお金ですので、もしも萬蔵が大人になって身持ちが悪く、極道者にでもなるようでしたら一銭も萬蔵にはやらんようにしてください。その時は、半額は教会に寄付し、残ったお金は姉にやってください。萬蔵が大人になるまでは、新蔵さんの手でどうか保管しておいてください。もちろん、そのお金が必要になったらお任せしますので、よいと思われるようにしてください[1]”
萬蔵は年期中に奉公先を飛び出すことになったため、格蔵の遺産の一部は萬蔵と伯母に分かつことになったい[1]。
萬蔵のその後
萬蔵は、奉公先を飛び出し、入れ墨を入れて無類漢となり、「丹波」という通り名で恐れられるようになった。その後、当時住んでいた堺市でキリスト教の説教会に行き、父に連れられて教会に通った幼児期を思い出して回心した。後には、堺の教会執事に選ばれ、1921年(大正10年)に丹波で開かれた格蔵没後三十周年記念式を訪れている[3]。
史跡
野村格蔵のみちしるべ
格蔵の遺言で建てられたとされる道標が、南丹市日吉町胡麻の京都府道50号京都日吉美山線沿いに建てられている。両親の供養塔も兼ねるとされている。自然石に「右とのだみち、左たわらみち」と刻まれている。「丹波ヨブ 野林格蔵記念 みちしるべ」と書かれた台座部は、後の1978年(昭和53年)に丹波新生教会が道標を再建した際に設置したもの[5]。
野村格蔵之墓
格蔵の墓は、山中の共同墓地にある。戒名や十字架はなく、「野村格蔵之墓」と彫られている[5]。
丹波ヨブを主題とした作品
- 伝記
- 松井文彌『丹波ヨブ』(1913年)
- 松井文彌『丹波ヨブ』(2020年、現代語訳)
- 小説
- 船越昌『鳥ヶ岳 丹波ヨブの生涯』(1972年)
脚注
注釈
出典
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 松井文彌『丹波ヨブ(現代語訳)』日本キリスト教団丹波新生教会、2020年5月17日。
- ^ a b 船越昌『鳥ヶ岳 丹波ヨブの生涯』主婦の友社、1972年。
- ^ a b c d e f g h i j k l m 山下幾雄『第14回丹波育児院 辻原光治とその周辺の人々』。
- ^ a b “野林格蔵物語 「天刑病」という苦難を越えて”. 地上の星. 聖書を読む会. 2025年9月26日閲覧。
- ^ a b c 田中恒輝『丹偉人伝心24 信仰を貫いた「丹波ヨブ」ハンセン病と、迫害に耐えたキリスト教徒 野林格蔵(1853~91年)』株式会社京都新聞社、2025年9月25日。
関連項目
- 野林格蔵のページへのリンク