重元流竹中氏
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1588年(天正16年)、竹中重門が菩提山城の山麓に岩手城を築く。尚、築いた時期は、文禄から慶長年間の頃の説もある。 1600年(慶長5年)、関ヶ原の戦いにて、竹中重門は当初西軍につき、犬山城城主石川貞清に協力。稲葉貞通、稲葉典通、加藤貞泰、関一政らと犬山城に籠城する。しかし、井伊直政の仲立ちにより東軍に加わり、黒田長政軍として参戦する。関ヶ原の戦いは竹中氏の領土も戦場となったことなどから、徳川家康より1,000石の米を下賜され、また、所領(不破郡岩手 6,000石)を安堵された。旗本として徳川将軍家に仕え、よって岩手城は以後、岩手陣屋と呼ばれることとなる。 竹中氏は旗本交代寄合として幕末まで存続して、幕末期の当主であった竹中重固は江戸幕府陸軍奉行に任じられるが、1868年(明治元年)の鳥羽・伏見の戦いで旧幕府軍の指揮官として新政府軍と交戦したため、朝敵として討伐対象となり、岩手陣屋は没収された。重固はその後、戊辰戦争で旧幕府軍の一員として箱館戦争まで戦い抜き、その結果竹中氏は6,000石からわずか300石に減封されて交代寄合の地位を失った。
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