郵船の台湾航路略史
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/23 05:53 UTC 版)
大阪商船は日清戦争終結後、新領土となった台湾への航路開設を進めるべく、社員派遣や台湾総督府への陳情を重ねた結果、1896年5月以降に大阪と基隆間の航路を台湾総督府命令航路として定期航海を下命された。日本郵船も台湾への航路開設準備を進め、大阪商船よりわずかに遅れたものの神戸と基隆間の航路を開設。1897年以降、こちらも台湾総督府命令航路となった。 1923年、日本郵船の近海航路部門が独立して近海郵船が設立され、神戸・基隆間航路も近海郵船に継承された。この際、近海郵船では神戸・基隆間航路に親会社から譲り受けた信濃丸(6,388トン)など6,000トンクラスの貨客船を配置したが、この航路の乗客や貨物は増大するばかりで、より大型の船舶を配置することとなった。まず第一次世界大戦でのドイツからの賠償船で、日本郵船に委託運航されていた吉野丸(8,998トン、旧名「クライスト」(Kleist))をチャーターして航路に配置した。次いで1928年、イタリアから2隻の貨客船を購入した。大和丸(9,656トン、旧名「ジュゼッペ・ヴェルディ」(SS Giuseppe Verdi))と朝日丸である。
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