還住の達成
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 20:19 UTC 版)
年寄多兵衛らの問題が浮上していた文政7年(1824年)4月、名主の次郎太夫らごく一部の島民を除き、ほとんどの青ヶ島島民が帰島を果たした。天明5年(1785年)4月の離島から40年が経過しようとしていた。 帰還を果たした人々は、噴火とその後長い期間放置されていたことによって荒れ果てた土地の開墾、船着場、道路、水源地の整備など島の復興のために努力を続けた。そして激しいネズミの害についてはおもに女性がネズミの駆除に携わった。かつての10人前後の人員ではどうにもならなかったネズミの害であったが、駆除を行う人数が増えたためにネズミは次第に大きな害をもたらさなくなってきた。 天保6年(1835年)、復興がほぼ成った青ヶ島は検地を受けた。検地の結果、4年後の天保10年から年貢の納入が決定されたが、一方で青ヶ島で生産することが困難である鍋や釜などの支給を受けられるようになり、また青ヶ島が年貢を納めるために使用する船を建造するために20両の助成金が受けられるようになった。 天保15年7月26日(1844年9月8日)、青ヶ島復興に大きな功績を挙げた佐々木次郎太夫伊信に対して、老中真田幸貫の名で銀10枚の褒賞と一代に限り苗字を許す旨の下知がなされた。佐々木次郎太夫伊信は嘉永5年4月11日(1852年5月29日)、青ヶ島で86歳の生涯を閉じたと伝えられている。
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