選挙戦における不正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 13:49 UTC 版)
「1960年大韓民国大統領選挙」の記事における「選挙戦における不正」の解説
与党自由党は、前年の1959年6月29日に開催された第9回代議員大会で大統領候補に李承晩を、副大統領候補に李起鵬を指名、1960年2月5日に立候補登録を完了した。一方、野党民主党は、正大統領候補に趙炳玉、張勉を副大統領候補として2月7日に立候補登録をした。しかし、前述したように趙炳玉が選挙運動期間中の2月15日に死亡したことで、正大統領選挙は李承晩大統領の再選が事実上確定、焦点は副大統領選挙へと移った。 統一党党首の金俊淵、大韓女子国民党の任永信も副大統領候補に登録したが、選挙戦は事実上、自由党と民主党の一騎討ちとなった。民主党張勉副大統領候補の当選を阻止したい自由党の意志によって、(民主党の)選挙運動は警察による演説会参加者の監視や威嚇、演説会場使用の禁止など厳しい妨害を受けた。2月28日に張勉副大統領候補が大邱で政見を発表した際には、その日が日曜日であるにもかかわらず大邱市内の全中学・高校生に登校するように命令し、野党立候補者の政見を聞かせないようにした。これに反発した市内の高校生1200名余は、「日曜日登校指示」に抗議して街頭デモを展開する事態となった。また3月9日には全羅南道の麗水で、翌10日には光山で民主党支持者が暴漢によって殺害される事件が発生するなど緊迫した情勢の中で3月15日の投票日を迎えた。
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