造反と告発
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/01 18:31 UTC 版)
「マルクス・マンリウス・カピトリヌス」の記事における「造反と告発」の解説
紀元前385年、対外的にはウォルスキ族との戦いが慢性的に続いており、さらにこの年はラティウムとヘルニキ族までもが背いた。そして国内では、マンリウスがパトリキでありながらプレブスのパトローネスを名乗って高利貸を非難し始めた。リウィウスによると、カミッルスだけが名声を恣にしている事に、同じ救国の英雄であるはずのマンリウスが我慢出来なかったからだという。この危機にアウルス・コルネリウス・コッススが独裁官に任命され、彼は副官にティトゥス・クィンクティウス・カピトリヌスを選んだ。 マンリウスは、あるケントゥリオが債務支払いを命じられ引き立てられていく姿を認めるとそこへ駆けつけ、債務を肩代わりし自由の身とした。更にウェイイに所有していた自分の土地を人々に売り与え、高利貸に苦しむ人々を見捨てることは無いと高らかに宣言した。彼は人々に対し、先年ガリア人に支払う為に集めた金銀を元老院議員が着服しており、それを使えば皆の債務を返済することが可能だと言い立て、騒動が膨らんでいた。 ウォルスキとの戦いを優勢に進めていた独裁官が呼び戻され、マンリウスと集会所で対決する事となった。もし本当に議員が公金を横領しているならば、その在処を明かすがいい。皆を救おうではないか。しかしマンリウスはそれには応えず、牢へ繋がれる事となった。人々はこの処遇に、貧民を救おうとして結局は処刑されたカッシウスや、スプリウス・マエリウスの事を思い起こして怒りを募らせ、遂にはマンリウスの解放を求めて暴動寸前となり、元老院は彼を牢から解き放った。 翌年になっても彼の怒りは収まらず、密議を重ねるうちに、とうとう執政官と独裁官の廃止にまで言及するようになっていたという。元老院はその対処に、護民官を使って告発する事とした。マンリウス氏族の誰一人として同行しなかったが、王位を狙ったとして告発された彼は、今まで救ってきた多くの人々を証人として呼び、カンプス・マルティウスで行われた投票では自らが守ったカピトリヌスの丘を指して懇願したため、人々は投票をためらった。そのために一旦延期され、丘の見えない場所で再度行われた投票で有罪となり、カピトリヌスのタルペーイアの岩から突き落とされ処刑された。 彼の死後、マンリウス氏族では今後誰一人マルクスを名乗らない事を決定した。人々は彼の恩顧を忘れることなく、その後疫病が流行すると、カピトリヌスを英雄の血で汚したからだとささやきあったという。
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