近隣のムスリムとの抗争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/22 04:49 UTC 版)
「エデッサ伯国」の記事における「近隣のムスリムとの抗争」の解説
ボードゥアン2世は、まもなく北シリアおよび小アジア情勢に関係するようになった。彼は1103年に小アジア中央部のテュルク系ダニシュメンド朝から、彼の捕虜となったアンティオキア公ボエモン1世を身代金で救出するのを支援し、アンティオキア公国とともに1104年にキリキアで東ローマ帝国を攻撃した。1104年の終わりに、アンティオキア公国に協力してシリア北部のハッラーンを制圧し、セルジューク朝の分裂に乗じモースルやバグダードへ通ずる道を押さえたが、モースルやマルディンのムスリム軍連合に完敗し、ボードゥアン2世もジョスランも捕虜となった(ハッラーンの戦い)。2人が1108年に身代金を払い救出されるまで、アンティオキア公国の摂政タンクレードがエデッサの摂政も行っていた。しかし、タンクレードが一時戦いに敗れたため、ボードゥアン2世は都市の統治を回復するために努力しなければならなかった。ボードゥアンはムスリムの地方政権のいくつかと同盟しなければならなかった。 1110年には、ユーフラテスの東方の領地がすべてモースルの領主マウドゥードに奪われた。しかし、他のムスリム君主による攻撃の場合と同様、マウドゥードも十字軍駆逐よりは自分の勢力の強化により深い関心があったため、エデッサ自体に対する攻撃はこれに続かなかった。 エルサレム王になっていたボードゥアン1世が1118年に死んだ時、ボードゥアン2世はエルサレムに移りエルサレム王ボードゥアン2世になった。ボードゥアン1世の兄のブローニュ伯ウスタシュがエデッサ伯の第1位の継承者であったが、彼は遠くフランスにいてエデッサの伯爵位を望まなかったため、エデッサ伯爵位は1119年に上述のジョスランに与えられた。 エデッサ伯ジョスラン1世はユーフラテスの岸辺で1122年にアレッポの地方政権アルトゥク朝のアタベク(領主)のバラクに敗れ捕虜となった。憂慮したエルサレム王ボードゥアン2世は彼を救出しようとユーフラテスに来たが、彼もまたバラクに捕らえられてしまった。エルサレム王国はその王が留守になる危機に直面した。しかし、ジョスラン1世は1123年に逃げて、翌1124年にバラクの跡を継いだティムルタシュが安易にもボードゥアン2世を釈放した。
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