辰ノ口江堰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/28 17:33 UTC 版)
1645年(正保2年)には久慈川流域の開発が計画され、茂衛門・勘衛門が設計・施工を担当することになった。茂衛門は現地を調査し、久慈川中流の辰ノ口(常陸大宮市)に堰と取水口を設けることとした。1645年(正保2年)に水戸藩に計画書が提出され、同年に測量調査が始められた。工事は1647年(正保4年)の暮れに始まった。 1648年(慶安元年)の春には取水口の水門が完成し、暮れには閘門が開かれて用水路に水が流れた。しかし、水路の途中で漏れが生じたため水は下流まで届かなかった。この頃、勘衛門が金山盗掘の嫌疑で入牢するという事件があったが、勘衛門は牢中から水漏れを防ぐ方法を提案し、水漏れは無事解消し工事が進んでいった。勘衛門は後に無罪となり、再び父子で工事に着手した。1649年(慶安2年)春には細部の工事も終了して灌漑が始まった。 完成した辰ノ口江堰は、久慈川の水を東岸の辰ノ口付近の湾曲部にて堰堤を設けて取水し、辰ノ口・塩原・小倉・富岡を通り久慈南部の水田を灌漑した。水路長は15キロメートル(後に22キロメートル)、灌漑面積は19村(後に21村)で1200ヘクタールにも及んだ。辰ノ口江堰の完成により周辺地の収穫量は増加し、年貢米も18,000俵から23,500俵へと増加した。農民は旱魃の困窮から解放されることとなった。
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