起源と語意
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/07/21 08:30 UTC 版)
天津司舞は、文化年間(1810年頃)に編纂された『甲斐国志』や、嘉永年間(1850年頃)に編纂された大森快庵『甲斐名所図絵』など、近世期の地誌類に記載が見られ、江戸時代後期には上演が行われていたと考えられており、天津司神社および小瀬地区には下記の伝承が古くから言い伝えられている。 昔、小瀬の里が開けないころ、十二の神々が天から降り、湖上で舞楽を奉した。その後、二神が天に戻り、一神は西油川の鏡池に没した。残る九神は舞楽を奉し続け、小瀬の里が開かれた。役人が神を模して神像を作り、これが天津司の舞の始まりとなった。 — 広報こうふ、天津司の舞 舞の起源、由来については諸説あり、確定的なものはない。『甲斐国志』ならびに諏訪神社々記にも「その権輿を知らず」とあり、文献から起源を明らかにするものは存在しないが、天津司神社々記には、「建久年間(1190年 - 1199年)に、甲斐武田氏5代の武田五郎信光が、小瀬にあった諏訪神社社地に館を造るため、諏訪神社を下鍛冶屋の鈴宮神社境内に移し、諏訪神社に鎮座していた9体の神像(人形)も、移設した鈴宮神社に祀られるようになった」とあることから、9体の人形は少なくとも建久年間には存在していたと考えられている。その後、大永2年(1522年)8月27日(旧暦)に、天津司神社が小瀬に造営されると、鈴宮にあった9体の神像(人形)は天津司神社の神庫に安置されるようになったため、舞を奉納する時は、天津司神社から鈴宮諏訪神社まで移動(御幸)するようになったと考えられている。
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