赤木志津子とは? わかりやすく解説

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赤木志津子

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/07/23 13:38 UTC 版)

赤木 志津子(あかぎ しづこ、1900年[1] - 1990年12月8日[2])は、日本の歴史学者日本史、特に平安時代文化史を専門とし、日本文学研究との学際的な研究を行い[2]お茶の水女子大学都留文科大学などの教員を務めた[3][4]

大学を卒業した女性の歴史学者としては、最初期の先駆的存在であった。

経歴

福井県今立郡神明村(後の鯖江市)に生まれた[3]。父は陸軍主計将校、母は御家人の家の娘で、志津子は、夭折した長男に続いて生まれた三姉妹の次女であった[5]。父の転任にともない石川県金沢市へ移り[6]、次いで父の台湾への派遣にともない、母の実家のあった静岡県静岡市へ移った後、1905年以降は父の転任に従って広島県広島市に定住した[7]。このため、出身地は広島市とされることもある[3]

広島市立中島尋常小学校から、広島高等師範学校附属小学校へ編入し、1年から6年までが一緒という複式学級であった三部に学ぶ[8]。広島県廣島高等女学校[9][10]を経て、1917年東京女子高等師範学校(後のお茶の水女子大学)文科に進んだ[11]

1921年に東京女子高等師範学校を卒業[12]し、長野県飯田高等女学校[13](後の長野県飯田風越高等学校の前身のひとつ)、大阪府立市岡高等女学校[14](後の大阪府立港高等学校)で教鞭を執ってから、1925年9月に青山女学院へ転任した[15][3]

1929年、開学したばかりの東京文理科大学に進んで[16]中山久四郎三宅米吉、島田均一、石川林四郎、河合栄次郎、大類伸今井登志喜らの講義にも触れた[17]。在学中に死去した三宅に代わって着任した松本彦次郎に師事し[4][18]1932年に女性として初めて同大学を卒業した[3]。大学在学中には、朝香宮湛子女王の家庭教師を務めた[2][19]

卒業後は、青山学院に戻り[20]1945年に青山学院女子専門学校(後の青山学院女子短期大学)教授を経て、1949年に大学に昇格したお茶の水女子大学助教授となり、1962年に教授へ昇任し[3]1965年に定年退職した[21]

その後、静岡県に新設された富士見丘女子短期大学の教員となった[22]が、この短大は経営破綻し、赤木は3年間勤めた後に退職した。

1968年から1973年まで都留文科大学教授を務めた[2]

おもな著書

単著

  • 紫式部とその時代、積善館(輝く御代と偉人叢書)、1944年
  • 平安貴族の生活と文化、講談社、1964年(後にパルトス社が1993年に復刻)
  • 御堂関白 藤原道長 栄華と権勢への執念、秀英出版、1969年
  • 後白河天皇、秋田書店、1974年
  • 栄光の女帝と后、集英社、1977年
  • 女性、近藤出版社(日本史小百科)、1977年
  • 教師の五十年 史学研究女性の回想、雄山閣出版、1985年
  • 摂関時代の諸相、近藤出版社、1988年

共著

  • 松本彦次郎との共著)源氏物語とその時代、東光協會出版部(文化選書)、1948年

編纂

脚注

  1. ^ 誕生日を、『20世紀日本人名事典』は3月5日、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は6月5日としている。自伝(赤木, 1985, p.14)によれば、実際の誕生日は6月5日で、父親がそれを3月5日として届け出たため、戸籍上は後者になっているという。
  2. ^ a b c d 山中裕「赤木志津子の訃(学界消息)」『日本歴史』第515号、吉川弘文館、1991年、125頁、ISSN 0386-9164 
  3. ^ a b c d e f 赤木志津子」『20世紀日本人名事典』https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%BF%97%E6%B4%A5%E5%AD%90コトバンクより2024年9月9日閲覧 
  4. ^ a b 赤木志津子」『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』https://kotobank.jp/word/%E8%B5%A4%E6%9C%A8%E5%BF%97%E6%B4%A5%E5%AD%90コトバンクより2024年9月9日閲覧 
  5. ^ 赤木,1985,pp.13-16
  6. ^ 赤木,1985,p.16
  7. ^ 赤木,1985,pp.16-20
  8. ^ 赤木,1985,pp.23-33
  9. ^ 東京女子高等師範学校 編『東京女子高等師範学校・第六臨時教員養成所一覧 自大正6年4月至大正7年3月』東京女子高等師範学校、1917年12月18日、193頁。NDLJP:939500/105 
  10. ^ 赤木は、自伝(赤木,1985)では「良妻賢母と裁縫で固められ服従を強いられ」(p.57)、「嫌いだった」(p.64) として、学校名を伏せている。
  11. ^ 赤木,1985,p.66
  12. ^ 『官報』第2616号、大正10年4月23日、p.729.NDLJP:2954731/9
  13. ^ 『職員録 〔大正10年7月1日現在調〕』印刷局、1921年12月15日、1195頁。NDLJP:12307851/678 
  14. ^ 『職員録 〔大正11年7月1日現在調〕』印刷局、1922年11月25日、920頁。NDLJP:986604/549 
  15. ^ 中等教科書協会 編『中等教育諸学校職員録 大正15年5月現在 第23版』中等教科書協会、1926年9月29日、98頁。NDLJP:937376/121 
  16. ^ 『官報』第728号、昭和4年6月5日、p.103.NDLJP:2957194/4
  17. ^ 赤木,1985,pp.155-157
  18. ^ 赤木,1985,pp.159-166
  19. ^ 桜蔭会 編『桜蔭会史』桜蔭会、1940年、902頁。国立国会図書館書誌ID: 000000706708 
  20. ^ 赤木,1985,pp.166-167
  21. ^ 赤木,1985,p.201
  22. ^ 大学職員録刊行会 編『全国短大・高専職員録 昭和42年版』広潤社、1967年、257頁。全国書誌番号: 51000761 

参考文献

  • 『教師の五十年 史学研究女性の回想』雄山閣出版、1985年、214頁。 



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