警視庁の許可と東京市の反対
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 00:25 UTC 版)
「東京乗合自動車」の記事における「警視庁の許可と東京市の反対」の解説
1917年(大正6年)5月、渡辺勝三郎、若尾璋八、堀内良平などの連名が東京市内での乗合自動車の営業許可を警視庁に願い出た。警視庁は東京市に許可の是非を諮問したが、東京市側が反対し、不許可とした。 1918年(大正7年)1月に再度、警視庁に対して営業許可を願い出たところ、7月23日になり一部通行路の修正のうえ許可がおりた。堀内良平によると「美観整備という見地に立って市街から見苦しい荷馬車や荷車を一掃するのを可とし、(中略)トラック運送を許可するが行ってみたら如何か」と話があった。これに対して堀内が「トラックで営業することに成案がないが乗合も同時に許可されるなら」と応じたとしている。 警視庁の許可に対して、東京市は「市営による交通機関の一元運営」を主張し、内務省および警視庁に対して許可撤回を求めた。特に市電を運営していた東京市電気局の局長は憤慨し許可撤回を求める主旨のパンフレットを発行した。一方で、警視庁側の主張は「再三協議し最近に於いても市長助役その他の人々と協議し、その結果支障なきものと認め」許可したとしている。
※この「警視庁の許可と東京市の反対」の解説は、「東京乗合自動車」の解説の一部です。
「警視庁の許可と東京市の反対」を含む「東京乗合自動車」の記事については、「東京乗合自動車」の概要を参照ください。
- 警視庁の許可と東京市の反対のページへのリンク