講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成
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「穂積重遠」の記事における「講義ぶり、ラジオ放送、女性法律家の養成」の解説
東京大学セツルメントは社会事業の一つであるが、重遠はそれをよく理解していた。 重遠は講演や夏期大学に精を出した。旅行先でも講演し、宇和島、鹿児島、朝鮮、満州、樺太、松江などにいって講演した。また、女性法律家の育成に力を入れ、明治大学女子部の創設がある。1929年から明治大学専門部に女子部が開設された。入学者は150名であったが、1932年に卒業できたのは、54名であった。1936年から高等文官試験司法科を受験することができるようになったが、1938年になって初めて女性3名が合格した。はっきりした記録はないが、重遠は戦前からラジオ講演をしていた。現在レコードを聞いても、絶妙な間合いであり、美声は心地よく響くという。しかし、父の陳重は講義調を脱しえなかった。また重遠は公民科の教科書を編集した。
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