諡号・追号
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後白河院 - 譲位後の院政時の住居の名称による追号(白河院の次に当たるという意味に因む)。明治年間以降は正式に後白河天皇と諡される。 行真法皇 - 退位・出家後に用いた戒名。
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諡号・追号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/03 01:13 UTC 版)
崩御後、漢風諡号「孝明天皇」が贈られた。諡を持つ最後の天皇(明治天皇以後の追号も諡号の一種とする場合もあるが、厳密には異なる)。勘申者は八条隆祐。
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諡号・追号
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/20 05:20 UTC 版)
『兵範記』久寿2年7月27日条によると、葬礼の準備が進められる中で院号定があり、まず右大弁・藤原朝隆が「近衛院」を提案した。院号は邸宅に因むという原則があり、近衛殿は天皇の里内裏だった。しかし花山院忠雅は近衛の字は追号に憚りがあるので「後陽明門院」ではどうかと発言した。忠雅はその理由を述べていないが、「近衛とは天皇の護衛兵であり院号にふさわしくない」「それならば近衛大路に通じ、別称でもある陽明門が良い」「陽明門院は禎子内親王の院号として既に使用されているので、後の字を付けて区別する」という発想があったと推測される。これに対して中御門宗能は「天皇と天皇ならば前後の字があるべきだが、天皇と国母、男女の間では前後の字を付けた例はない」と反論。これにより「後陽明門院」や「陽明門院」は撤回され、当初の「近衛院」に決定した。
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