観世大夫として
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/09 08:49 UTC 版)
1682年(天和2年)、養父・重清が50歳で隠居し、重賢が25歳で12世観世大夫の地位を継承する。同時に通称をそれまでの三郎次郎から「左門」に改めるが、これは8世以来続いた当主の通称「左近」を遠慮するとともに、先人である世阿弥が「左衛門大夫」を名乗った先例を踏まえたものと考えられる。 また養父・重清の希望を受けてか、その実子である久馬助を自身の養子として後継者に据えている。その久馬助に専ら大夫代理を任せるなど、早くから観世宗家に大夫の座を戻すことを企図していたらしい。 一方、時の将軍・綱吉は能に対し「稀代の能狂」と評されるほどの没頭を示していた。綱吉の愛好により、この時期の能界は「未曾有の盛況と混乱」を呈することとなる。1683年(天和3年)には観世座小鼓方の観世新九郎親子が綱吉の逆鱗に触れて追放され、1686年(貞享3年)には喜多宗能親子がやはり追放、喜多座が解体されるという事件が起こっている。 綱吉の能との関わりの中でも悪名が高いのは、能役者を「廊下番」などの名目で半強制的に士分として登用し、自身の私的な催能に参加させたことである。そして1685年(貞享2年)、19歳の久馬助も、「藤本源右衛門」として御次番に取り立てられてしまう。男色目的とも推測されるこの登用により、観世座は突如として後継者を失うこととなった
※この「観世大夫として」の解説は、「観世重賢」の解説の一部です。
「観世大夫として」を含む「観世重賢」の記事については、「観世重賢」の概要を参照ください。
- 観世大夫としてのページへのリンク