観世左近襲名
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1927年(昭和2年)、観世宗家の伝統的な名である「観世左近」を襲名する。 1931年(昭和6年)、東京音楽学校邦楽科の設立に伴い、邦楽部講師に就任。邦楽部が本科となるのに併せ、1936年(昭和11年)には教授に昇格している。 1934年(昭和9年)2月、40歳を記念して観世会能楽堂で自らの独演による五番能を敢行。曲目は「竹生島」「俊成忠度」「江口」「景清」「望月」。 野上豊一郎、三宅襄を通じエッセイ集の執筆を依頼され、三宅の編集で1939年(昭和14年)『能楽随想』として刊行する。「まだ早いのではありませんか」と問う弟子の藤波順三郎(紫雪)に対し、「いや、今の心境だよ、先へ行ったら先で又書く」と述べていたが、校正中途で倒れ、これが遺著となった。
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