親ロシア派時代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/02 19:28 UTC 版)
「シャミル・バサエフ」の記事における「親ロシア派時代」の解説
1987年、モスクワ土地整理技師専門学校に入学したが、1年後、成績不振により除籍。暫くの間、モスクワでコンピュータ売買などによって生計を立て、1989年から1991年までイスタンブールのイスラム大学で学んだ。1991年、カフカス人民同盟軍(カフカス山地民同盟)に参加した。同年8月のクーデター未遂事件では、エリツィン側に立ってロシア連邦最高会議ビル(ホワイトハウス)の防衛に参加した。 クーデター後、チェチェンに戻り、1991年11月、トルコでアエロフロート航空機ハイジャック事件を起こす。1992年、カフカス人民同盟軍司令官に就任。1992年から1993年にかけて、アブハジア紛争に武装勢力「チェチェン大隊」を率いて介入し、義勇軍を称してアブハジア独立を阻止する立場のグルジア政府軍と戦う。この戦闘に介入した裏には、ロシア連邦軍参謀本部情報総局(GRU)の工作があったとされ、バサエフ麾下の武装勢力は、GRUによって直接訓練を受け、アブハジアに介入するように指示されたと言われている。
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