補償金問題と通貨
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/03 08:17 UTC 版)
「ウィリアム・シャーリー」の記事における「補償金問題と通貨」の解説
アメリカ植民地にはもう一つの論争があった、それはルイブール遠征と、イギリス陸軍が駐在するまでのニューイングランド軍の駐在費用の、イギリス本国による填補だった。イギリス政府の、アメリカからの填補要求に対するイギリスの返事は時間がかかった。返答を待つ間、填補金をどう利用するかが新聞や冊子で論じられた。サミュエル・アダムズのように、その金をロンドンの銀行に預け、植民地の紙幣として戻ってくるように役立てたらいいという主張もあった。他に、ウィリアム・ダグラスやマサチューセッツ下院議長トマス・ハッチンソンが主張するように、その紙幣を兌換して、マサチューセッツに基軸通貨をもたらそうとする動きもあった。1748年、アーヘンの和約でルイブールの砦はフランスに返還された。イギリスは、大枚はたいたにもかかわらず、フランスにルイブールが戻されたことを植民地に黙認させるために、填補金の問題を保留し続けた。 その間シャーリーは、セントフレデリック砦(現在のニューヨーク州クラウンポイント)の攻略のため資金を調達しようとしており、このために多くの紙幣を刷った。この作戦は他の植民地が支援に失敗した時点で却下されたが、結果としてインフレーションを招き、これによって有名な商人であるサミュエル・ウォルドをはじめ、シャーリーの支援者たちが総督批判に回った。ルイブールがフランスに戻されたことで住民のシャーリーへの不満は高まり、シャーリーは、イギリスのアメリカ植民地への陰謀の共犯とみなされた。ウィリアム・ペッパーレルでさえシャーリー解任の大勢の住民側に与した。イギリス政府に向けられる不満から自分で身を守る必要を感じたシャーリーは、1749年9月にイギリスへ渡った。その後ほどなくして、長いこと保留されたままになっていた填補金がボストンに届いた。
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