衛星政党化
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ソ連占領区域にてソ連がドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)を合同させ結成を後押ししたドイツ社会主義統一党(SED、実質的な共産党)の力が強まると、反共主義的な指導部や党員は西側に追放されて、親ソ・容共的なヴィルヘルム・キュルツ(Wilhelm Külz)が党首となり、ドイツ民主共和国が成立し人民民主主義体制が確立すると、SED主導のヘゲモニー政党制に組み込まれ、その衛星政党となってしまった。それまでに西側の自由民主党(テオドール・ホイスが率いていた)との合同の試みもあったが、失敗に終わっている。またソ連軍や社会主義統一党はドイツ自由民主党に対抗させるため、わざわざ元ナチ党員を基盤にドイツ国家民主党(NDPD)を結成させている。党名も当初は自由民主党(Liberal-Demokratische Partei (LDP))だったが、SEDの政策に基づいて1951年に "Deutschlands (D)" を追加し、LDPDとなった。
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衛星政党化
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「ドイツキリスト教民主同盟 (東ドイツ)」の記事における「衛星政党化」の解説
しかし、ソ連占領区域でドイツ共産党(KPD)とドイツ社会民主党(SPD)が合同しドイツ社会主義統一党(SED)が結成されるなどスターリン主義に基づく共産主義化が進むなか、1948年にカイザーがソ連占領区域から追放されると、西側のCDUとの関係は切れ、オットー・ヌシュケ(ドイツ語版)の下で実質的に社会主義統一党主導の人民民主主義体制傘下の衛星政党となった。さらに、それでも農村部には独自の組織力を有していたCDUの勢力をそぐことを目的に、ソ連軍および社会主義統一党は1948年にわざわざドイツ民主農民党(DBD)を結成している。公式には1949年のドイツ民主共和国(東ドイツ)建国後、1952年の党大会で社会主義(ここではマルクス・レーニン主義のこと)を受容した。 東ドイツにおいては、キリスト教民主同盟は人民議会の500議席中52議席を割り当てられ、形式的には勢力を保っていた。しかし、東ドイツ憲法では社会主義統一党が国家を指導することになっており、キリスト教民主同盟が当局や社会主義統一党の施策に反対することはほとんどなかった。党首は国家評議会副議長となり、閣僚評議会副議長(副首相)を出すなど、完全に体制内の政党となっていた。
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