行隆以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 00:35 UTC 版)
松平行隆(甚三郎)は慶長11年(1606年)に徳川家康に召し出されて御小姓となり、慶長16年(1611年)に旧地三河国碧海郡赤松村に知行地を賜った。家康の死後は徳川秀忠に仕えて御使番となり、寛永10年(1633年)には加増を受けて碧海郡内で1000石を知行した。寛永11年(1634年)には幼少の池田光仲が藩主を継いだ鳥取藩に派遣されて国政を監督するなどの活動をしている。寛永14年(1637年)に島原の乱が発生すると、一揆の様子を確認し急ぎ戻るように命令を受けて肥後国に赴いた。その後細川勢(熊本藩)の軍監として出陣し軍功を挙げたが、乱終結後の寛永15年(1638年)に、当初の命令に反して現地に長くとどまったことが軍令違反として咎められ、所帯収公・追却の処分を受けた。『寛永系図』は行隆が追却処分を受けていた時期の編纂であるため、その家系が掲載されていない。慶安元年(1648年)に罪が赦され、慶安3年(1650年)に召し出されて御先手弓頭などを務めており、最終的には1300石の知行取となって地位を回復した。 行隆の子・松平隆見は弟の義春に300石を分けて1000石を継ぎ、御先手弓頭・長崎奉行・普請奉行を歴任し、500石を加増される。隆見の養子・松平隆欽(実父は戸田忠時)は御小姓組番頭となり500石を加増された(合計2000石)。隆欽の子・堅隆は弟の幸隆に500石を分けた。堅隆の後は隆紀、隆定、親房と続くが、宝暦2年(1752年)に親房が「たびたび娼家にあそび、あまつさえ下賤の者といさかひせしこと」を咎められ、遠流に処せられて本家は断絶した。 なお、松平隆欽の子の荒尾勝就は、鳥取藩重臣倉吉荒尾氏の分家・荒尾重就の養子となったあと、倉吉荒尾氏本家(荒尾志摩家)を継いだ。重就の家には勝就実弟の荒尾仙就が養子に入っている。 『寛政譜』編纂時には庶家2家(松平田宮栄隆・松平甚三郎義久)が存続している。松平田宮栄隆家は堅隆の弟・幸隆にはじまる家、松平甚三郎義久家は隆見の弟の義春にはじまる家である。
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